笛の音 2.-18
愛美に不意に呼びかけられて有紗は肩を跳ね上げて顔を上げた。強い波がやってきていた。
(うっ……)
体の奥から轟いて来る。ごまかさなければ、三人が自分の言葉を待って黙っているから、このままだと音が聞こえるかもしれない。
「……あ、うん。しょ、しょうもなくなんか、ない……」
「ん? 有紗は知ってるのか? ……その直くんを」
洋子も愛美も有紗の方を向いて、斜向かいの信也の顔は見えていない。その信也は有紗の苦悶を読み取って、唇の端を上げて哄笑せんばかりの残酷な貌を浮かべていた。
「あ、うん……。こ、この間、会わせてくれた、から……」
有紗は箸を止め、茶碗を置いた手をテーブルの下に差し入れて下腹を掴むようにグッと抑えた。声を出すときに奥歯が鳴りそうで、必死に堪えながら、「……よ、よさそうな、カ、カッコいい男の子、だったよ……」
「ほらーっ!」
辛うじて言った有紗の隣で、父母に向かって愛美が了解を求める。たまらなく惨めだった。こんな苦痛に耐えながら、愛美のために直樹のことを褒めなければならない。
「……そうか。ま、有紗がそう言うなら、信用できるかもしれないな」
「でしょー? ……って、もうっ、お父さんっ。おねえちゃんが言わなきゃ信じてくれないのっ?」
そう言うと、愛美もろとも三人が笑った。笑わなきゃ。波が引いていく。有紗はほのぼのとした雰囲気を壊さないよう笑顔を作った。
「……でも、……愛美ちゃんにも彼氏ができて……」
洋子がどこかしら安心したような溜息をつき、「有紗ちゃんにも……、ね? 嬉しいけど、ちょっと寂しいなぁ」
「えっ、おねえちゃん、森さんと付き合うことにしたんだ!?」
それを聞いた愛美が大声で有紗の方を向いた。
「……ん? 愛美も森くんのことを知ってるのか?」
「あ、やば……。あれ? お父さんもお母さんも知ってるの?」
「有紗は、どこかの誰かみたいにコソコソしないからな」
信也は白々しく笑ってみせた。「ちゃんと俺と母さんに会わせてくれたぞ?」
ミッドタウンでの不本意な邂逅を知らない愛美は、
「もー、やっぱりおねえちゃんってすごくイイ子だー」
あろうことか愛美であるのに、「イイ子」と評されて猛烈な嫌悪を感じそうになり、有紗は必死に押し殺した。無邪気な愛美が何も考えずに言っただけだ。姉を慕ってくれているからこその……。
「森さんすっごくイイ人だし、おねえちゃんに超お似合いだねっ」
「……うん、ありがと……」
直樹くんみたいにカッコよくないけどね、そう冗談を言ってやりたかったが、言えなかった。言えないのは腹痛のせいだ、と何度も自分に言い聞かせながら、
「あの、ごめんなさい……。今日、ちょっと食欲が」
と洋子に申し訳なく言った。もうこの場を立ち去りたい。
「あら、大丈夫? 有紗ちゃん」
「うん、……ちょっと入らなくて。残しておいて。明日お弁当にして持って行くから」
「おねえちゃん、間食したんじゃないのー?」
有紗は箸を置き、こみ上げてくる何もかもを呑み込んでから口角を何とか上げ、
「愛美と一緒にしないでよ」
と笑み声を発し、もう一度洋子に謝ってからダイニングを後にした。
部屋に戻るとベッドに飛び込み、横臥して体を丸めた。下腹を抑える。固く目を閉じた。幸いだったのは、部屋に戻って一人になると直腸を襲う便意がいよいよ轟音を立てて下肢を戦慄させてきたことだった。――本当に、幸いだった。そのこと以外、考えられなくなった。噴流がチェーンを引き千切り、プラグを弾き飛ばして流れ出てくるのではないか、それほどまで差し迫った時、有紗は震える手で叔父にメールを打った。
「おねーちゃん、さきにお風呂はいっていい?」
送信ボタンを押すや否や、脂汗を滲ませている有紗にドアの向こうから声がかかった。あまりの苦悶で階段を上がってきた足音に気づいていなかった。
「……あ、……うん。……い、いいよ、先、入って……」
途切れ途切れにしか声が出なかった。途端に心配そうな声になって、大丈夫ぅ?、と聞こえてくる。ドアに手をかけているかもしれない。今の自分はどんな顔をしているか知れたのものではない。有紗はとっさに、
「だ、大丈夫。さ、先に入って」
声を大きくして答えた。それが心配無用と聞こえたのか、はーい、と言って愛美がドアの前を去って行く。同時に携帯が震えた。急いで画面を見た有紗は文面にぎゅっと瞼を閉じ、ブランケットの中に呻き声で恨意を叫ぶと、ゆっくり身を起こし部屋を出て行った。
階段を一段一段、静かに降りていく。脚を踏み下ろす度に下腹にかかる負荷が、自部屋に戻った時よりも数段強くなっていた。足を摺って廊下を歩き、トイレのドアノブに手をかけたところでリビングから信也が出てきた。前屈みになったまま、虐殺者を見るような目で見上げた有紗に素早く近づいてくると、手ごとノブを捻り、背中を押して二人で入ってきた。後ろ手で鍵を閉めると同時に、顔を上げさせて唇にしゃぶりついてくる。