笛の音 1.-36
指定の場所に着いて周囲を見回したが、まだ愛美の姿は見えなかった。有紗は外に続く階段の側に立って、バッグからスマホを取り出した。メールもメッセージも、まだ来着していなかった。
(愛美と一緒にいるときに電話がかかってきたらどうしよう)
何とか繕って席を外すしかない。昨日から明彦からメッセージがいくつか来着していたが既読にはしていなかった。そちらも早い内に意志を伝える必要がある。冗談が多く明るい男とはいえ、誘ってきてくれる気持ちは真面目だった。せめて実際会って、誠意をもって断ったほうがいい。そもそも自分の側には、恋情のセックスを味わいたいなどという手前都合甚だしい願望に利用しようとしたという負い目がある。
「おねーちゃんっ……」
愛美の声が聞こえてきて顔を上げたが、雑踏の中にすぐには見当たらなかった。やがて直前を行き交う人の隙間に愛美がまっすぐこちらへ近づいてくるのが見えた。
「ごめんね、ちょっと遅くなっちゃった」
愛美が満面の笑みを向けてきた。はしゃいでいる。「……ビックリした?」
――目の前が真っ白になる、ショックに目が眩む、頭を鈍器で殴られるような衝撃が与えられる、といったことは現実には起こらなかった。愛美はニコニコとしながら……、腕を絡めてピッタリとくっついている。
「へっへー……。このあいだ、おねえちゃん、カレシ……、んと『ほぼカレシ』に会わせてくれたじゃん? だから私も、ちゃんと、お姉ちゃんに、……やっぱりお姉ちゃんに一番に紹介したくて」
有紗が見上げた直樹の表情は、唇を僅かに開いたまま、あの澄んで麗しかった瞳は生命力を失い、黒目がくすんでいた。「……あー、直くん! もしかしておねえちゃんに見とれてる!」
有紗の視線を追うように見上げた愛美は、直樹の顔を見て頬を膨らました。
「あ……」
「だからおねえちゃんに紹介するの、勇気いたんだよーっ、もおっ。……ダメだよ、直くん、おねえちゃん一流企業のカレシいるんだから。……って、ダメな理由はソコじゃないだろ! ってちゃんとツッコんでよー」
嬉しくなると周りが見えなくなる。愛美は自分でそう言っていた。確かにそのとおりだ。何かを言おうとして直樹が唇を震わせている。昨日吸い合ったあの唇に比べると、赤みを失っているように見える。鼓動も呼気も思ったより早くならなかった。昨日、雑居ビルの前で抱きしめられた時の方が、余程死にそうなくらいに脈が上がっていた。
「……こんばんは、愛美の姉の、有紗です。……はじめまして」
見上げたまま言った。直樹の開いていた口が閉じた。そして、これも自分でも驚くほどスムーズに、直樹の首から肩へ追っていくと至る二の腕にしがみついている妹に目を移した。「すごいね、愛美。めちゃくちゃカッコいいカレシじゃん」
ああ、そうか。自分は呪われているんだ。
昨日、この同じ八重洲で望外の幸福を味わった。少女のように無垢な夢を見るつもりはさらさらなかったが、父親を失ったがために、そして目の前に立つ大事な唯一の肉親を守るために、淫穢な汚泥に足を引かれ首まで浸かりそうな苦しみに見舞われ続けていた自分に、神様が至高の施しを与えてくれたのだと思った。今日も……、今の今までそれを噛み締めながらここにやってきた。しかし、自分が見初められたのは神様などではなかった。
メールもメッセージも来ない。電話など鳴るわけがない。有紗は昨日直樹に声を掛けられる直前にスマホの中に覗いていたDVDの原作紹介を思い出していた。
呪いと憎しみが満ちた旋律――。どうせなら、ここまでするなら、その笛の音まで聞かせてくれればいいのに。