笛の音 1.-27
有紗は半笑いで溜息をつき、「私、先週もこの辺りでばったり家族に会った。約束もしてなかったし、どこで何してたかも知らなかったけど、ばったり。直樹さ、何か夢見てるみたいだけど、私に会ったのなんか、別に奇跡でもなんでもないから」
「ウソだよ」
「なんなの? 直樹、キモいよ」
勢いで思ってもいない言葉で直樹を貶してしまって、途端に瞼が熱くなり、有紗はまた奥歯を噛んで押し黙った。直樹も窓の外を向いて息をつく。離れたところで、音楽を聞きながら何かの勉強をしている若者が、有紗たちのほうを垣間見た。ヘッドフォンの音楽を超えて聞こえるほど声を荒らげてしまっていたらしい。
「……ね、直樹」
有紗は声調を極力穏やかにして、「彼女、いる? いま」
「ん? ……、……うん、いる」
直樹のような美男が一人でいるわけはないだろう。傷つけるようなことを言って、音信不通になった女のことをいつまでも引きずっているわけはない。浅ましい夢を見ていたわけではなかったが、予想していた答えを聞いたのに、胸に体の中から針を刺されたような痛みが走った。
「……じゃ、さ、ウソがどうとか面倒じゃない? もういいじゃん。今の彼女大事にしてればさ」
「……いやだ」
「ちょ、直樹――」
有紗が呆れた表情を作るか、怒れる表情を作るか一瞬迷った時、直樹が再び有紗を見つめてきた。哀しげだ。有紗を失った哀しみとも、有紗が最低な女だと知った哀しみとも類が異なる顔だ。
「有紗さんが好きだったんだ、ものすごく」
「……、過去形でしょ」
「有紗さんにも好きになってもらえてるって分かってた」
「……」
茨城にいたときはね、でも、東京に出たらそうでもなくなったんだよ――、と言おうと思ったが出てこなかった。向けられている直樹の顔は、嘘を再現することができないほどの哀惜に満ちていた。
「東京行ったくらいで、あんなこと言うわけない。証拠になる思い出ならいっぱいある」
「やめて。……ね、もうやめよ? この話」
有紗にだって、証拠となる記憶はたくさんある。もう無理だ。いきなり現れて、そんなことを言われて、うまく対処などできる筈がない。
「有紗さんは、……ウソついてた」
「……お願い、やめて」
「あの時のあれが、ウソだった、って有紗さんに言ってもらえなきゃ、……有紗さんを好きになったことも、有紗さんに好かれたってこともウソになる。そんなのいやだ」
我慢していたから意識して留めていたが、却って瞳が乾いて瞬きをせずにはいられなくなった。俯いて一度瞼を伏せると、忽ち潤った瞳の中から雫がスカートの上に落ちる。
「そこだけは、ウソにしたくないんだ、俺。絶対に」
直樹が両手の指を組み、カウンターに肘をついて鼻先に押し付けた。直樹の目線が反れて漸く、歪み始めた視界の中に直樹を映した。流麗な睫毛が昔日の自分を思い出してくれているように見えた。有紗はよく袖を引いて身を寄せていた彼の二の腕に縋って泣きたかった。本当は直樹のことが好きで仕方がなくて、それが直樹には絶対言えない形で失われた、全ての事の次第を彼に伝え、一言、ごめんなさい、と許しを請いたかった。しかしできない。それをやったら、崩落するのはついてしまった嘘だけではない。
「……いきなり声かけてきてさ、そんなこと言うのどうかしてるよ」
もう泣いてしまったのは知られているだろう。有紗は人差し指で目元の雫を拭い、鼻を啜って、「彼女いるくせに。私、いい迷惑」
しかし直樹は有紗の謗りを無視して、
「――本当はどうだったかなんて聞かないから」
また有紗を向いてきた。瞳に吸い込まれる。「あの時の電話はウソだったってことだけが、知りたい」
直樹の芯が通った声を聞いた有紗は息が止まった。意図的にゆっくりと吐き出そうとしなければ、そのまま呼吸が停止してしまいそうだった。
やがて有紗は、バッグからみたびスマホを取り出した。
「もしもし!」明彦の急ぐ声が聞こえてくる。「あ、もうすぐ! いま! いま会社出るから!」
片付けながら話しているのだろうか、物音も聞こえてきて、少し息を切らしている。
「あの……」
自分の声は、別の理由で泣いたせいで、うまい具合に消沈した印象で明彦に伝わったはずだ。「ごめんなさい。……その、今、家から連絡があって、急に帰らなきゃいけなくなって……」
明彦には珍しく一瞬の間が空き、
「ごめんなさい」
有紗はもう一度謝ってその空白の時間を埋めた。
「そっかー……、うーん! まさか二連チャンとはなぁ。まあ、仕方ないよね。……あ、だめだよ? 前原さん、『私たち相性悪いのかもー』とか思っちゃったら。女子ってさー、いっつもそーやって勝手にわけわかんない自己完結するんだから」
明彦が気持ちを切り替えて言った言葉に、有紗は申し訳なさ気な声音の中に笑み声を含ませ、
「わかりました」直樹をチラリと見ると、電話をする有紗を見ている。「……すみませんが、もうちょっと、死なないで生きててください」
有紗は少し細めている直樹の瞳を見つめ返しながら、彼には分からない冗談を加えた。