笛の音 1.-26
「有紗さん」
見つめられてもう一度言われた。
「……な、に?」恐ろしいほど声が霞れて詰まった。「なんで、ここに、……いるの?」
「前の道、歩いてたら窓際に有紗さんを見つけたんだ。まさか、って思った。でも間違いなく有紗さんだったし――」
じっと見られて俯きたかった。七年経ち、当時から整っていたのが全く崩れず成長して、かつ男らしい精悍さも備え始めている顔から目が離せなかった。遠ざかりつつある、努めて美化させようとすればするほどに悲しい思い出の中の彼は、頭の中で歳を重ねさせてきた想像を何倍も上回って端麗な青年になっていた。目線を外せないのは、見惚れていたから、と言われても否定できなかった。
「――こんなにたくさん人がいる東京で、有紗さんを見つけるなんて奇跡だと思った。声かけなきゃ一生後悔すると思った」
「声かけて、私を責めるため?」
「責めないよ。けど、訊きたいことがあって」
「直樹」
有紗は七年ぶりにその名を声にした。最後に呼んだのは、あの身が引き千切られるような嘘をついた時だ。しかしその痛みは、真実を直樹に話すよりはずっと救われた痛みだった筈だ。有紗は直樹の前で表情を決して崩さぬよう、口の中で奥歯を噛んで、こみ上げるものを呑み込んだあと、
「じゃ、早く訊いて。私……」
そう言って有紗は意図的に柱にかかった時計へ目線を向けた。「これからデートだから」
その言葉を聞いた直樹は一度ゆっくり瞬きをして有紗を見つめ直した。長い睫毛、秀麗な瞳を彩る二重。変わっていない。これだけ整った少年が自分を好いてくれて、自分も没頭するほど彼に惹かれたんだったな。有紗がどれだけ抵抗しても、奥底から彩々とした光景を伴った当時の感慨が強烈に蘇ってくる。
「あの時、なんであんなこと言ったの?」
「……あの時にちゃんと言ったじゃん」
自分の声を聞いて湿り気に震えていることに気づき、「直樹よりカッコいい子が声をかけてきたから、別れたいって思った」――そう繋いだら、とても耐えれそうになかったから、有紗は言葉を続ける代わりに、深く息を吸い込み、落ち着くまで待ってから吐き出した。
「俺はそんなわけないって思ってる。今も」
「なにそれ? なんでそんなこと直樹が決めるの?」
「別に決めてない。……松戸まで来てくれるって言ってくれたのに、早く会いたいって言ってくれたのに、『制服取ってくる』って普通にメールしてきてくれてたのに、……次に話した時、いきなりそんなこと言われたんだよ? 俺」
お願い、そんなに詳しく語らないで欲しい。有紗は直樹を恨んだ。客観的に回顧されたら、ますますあの時の苦悶が蘇ってくる。「おかしいじゃん、そんなの。どう考えても」
「でも、そう言われてわかったんでしょ? ひどい彼女だった、って」
「そんなの、言われてすぐなんて、わからなかったよ」
「ウソつかないで。だって……」
時計の針が進んでいる。明彦は仕事を急ぐと言っていたから一時間よりも早くに現れるかもしれない。持ち直すには時間がかかりそうだ。「あれから一度も電話も、メールもしてこなかったくせに。高校に合格して、お母さんの携帯チェックも無くなったって言ってたじゃん。だったら電話なんて、いっくらでもしてこれるのに」
嘘を貫徹させたい意地で口を開いたら、語気を荒らげて言葉を並べすぎてしまった。自分から切り出した別れなのに、直樹が何もしなかったことを責めている。いけない、この調子で話していては、いつか溢れ出てくる。有紗は直樹が連絡してこない、連絡してこれない理由を知っていたからだ。
「わからなかったんだ。……わけがわからなかった。どうしたらいいかわからなくて、やっと少し整理がついたら、有紗さんに連絡が取れなくなった」
直樹と別れた日の昼間、叔父が家族に隠れて部屋に忍び込んできて、別離の哀しみに潰されてまだ布団の中にいた有紗にのしかかってきた。寝間着と下着を片足から外し、脚を開かせると唾液を垂らして扱いた男茎を挿入してきた。腰を揺すりながら、有紗の携帯のアドレス帳を片っ端から確認し、破瓜された瞬間に思わず叫んでしまった『直樹』の名の連絡先を、息を殺して蹂躙される有紗の目の前で消去した。家族が居るにも関わらず、三日連続で有紗の膣内に忌まわしい精を吐き出した信也は夕方になると何事もなかったような顔で、「家族なんだから割引利用にしないとな」と、携帯を持たせてもらえることにはしゃぐ愛美にまとわりつかれながら、一家全員で契約しているキャリアの店舗へ行った。洋子と愛美の死角で、MNPは許さない表情を向けられた有紗は、携帯を新しい番号へ変えた。帰りに寄ったレストランで口に入れるものは、何一つ味を感じなかった。
「……そんなウソ信じると思う?」
「有紗さんこそ、ウソだよね?」
「だから、なんで直樹が決めるの? いいかげん、目を覚ましたら?」