笛の音 1.-20
住吉駅を降りたら結構な時間だった。DVDと明彦がするセックスの時間は想像つかないが、もしあのまま彼の家に行っていたら終電には間に合わなかっただろう。日付が変わってタクシーで帰ったら、叔父はどんな顔をしただろうか。男と夕食をとり、家に行ってDVDを見て、それから。だがそれは叶わなかった。叶ったほうが良かったのか、どうなのか……。
また週末が近づいてきた。叔父はきっとどこかに自分を呼び出すに違いない。週末まで待ちすらしてくれないかもしれない。だから、いっときでも叔父も、そして愛美のことも忘れて、どうしようもない空虚を明彦で埋めてみたかったのかもしれなかった。しかし当の愛美が現れてそれを止めた。良かったのかどうか考えても、どうやら意味がなさそうだ。実際に愛美が現れて、こうして久しぶりに二人だけで歩いているのだから――。
有紗は隣を歩く愛美を見た。しかし明彦がいた時、あれほどはしゃいでいたのに、今は消沈しているように見えた。
「……どうしたの?」
有紗はいつも通りの優しい姉の声で問うた。
「ごめんなさい……」
「え、なにが?」
「私、はしゃぎすぎてて気づかなかった」
口を尖らせている。もうすぐ成人だというのに、こういった仕草が抜けないところが心配の種なのだ。
「何に?」
「おねえちゃんに彼氏できたー! ……って思ったらすっごく嬉しくて、周り見えなくなっちゃった。……おねえちゃんたち、あのあと二人っきりになるところだったんでしょ?」
その通りだったが、失笑が漏れた。
「おい、いつの間にそんな下ネタ言うようになったの?」
「だって……」
「付き合ってない、って森さんも言ってたでしょ? お姉ちゃんをそんな尻軽にしないでください」
「……今度からは、邪魔だったら邪魔ってはっきり言ってね」
「そんなこと言えないよ」
有紗は声に出して笑った。「そんなこと言ったら、これからそういうことするんです、って愛美に言ってるようなもんじゃん」
「そっか。そのとおりだ」
愛美もやっと笑った。そうだ、妹は有紗が先に笑わなければ笑顔が戻ってこないのだ。
「……お父さんとお母さんには内緒にしておいてあげる」
「そりゃ、どうも」
「もし、お父さんお母さんに内緒で家に帰らないつもりなら、私に任せて。うまく言っておくから」
「不安……。バレそー」
「なんだとー、もー!」
と愛美が姉を非難しようとしたら、ちょうど前を通りがかったコンビニの入口でバチッと音が鳴った。「わっ! ……びっくりしたー」
入口の上に設置されている殺虫灯に虫が飛び込んだ音だった。季節にはまだ早いのに世に躍り出た虫は、妖しい光に誘われて思いがけず命を散らした。有紗は彼の死を少し悼みながらまだ音に怯えた顔の愛美を見た。頭の中で誰かに問われている。
(では今の君の生き方は、あとどれくらい生きるつもりの生き方なんだ?)
――しかし、そんなことは生き方を選べるからこそ偉そうに問えるのだ。
思った通り金曜の夜に階下の叔父からメッセージが届いた。翌日、恩賜公園の入口前、新大橋通り沿いで待っていたらベンツが止まって速やかに乗せられた。
今日は洋子も愛美も家に居る。外に連れ出されたほうがいい。
「……ちょっと前に合コンに行ったんだって?」
暫く走らせると、前を向いて運転しながら信也が言った。横目で見やると明らかに不機嫌な顔をしている。愛美が漏らしてしまったのかと、思わず妹を恨む気持ちが起こってきそうで、必死に己を制動し、
「行った。……誰から聞いたの?」
と言った。
「岡崎ってのがいたろ? あいつは経理部だ。……まったく、合コンなんて行っている暇があったら、しっかり仕事して欲しい。普段からヌケてるくせに」
明彦とともに合コンに現れたメンバーは、もちろん皆叔父の同僚だ。そちらの線から漏れたらしい。その後に有紗が明彦と会ったことも知っている? だが瞬時にその懐疑は打ち消された。明彦はまだ自分をモノにしていない。そんな状態で、得意げに総務部長に向かって子会社の二年目OLとデートしたことを吹聴する明彦の姿は想像できなかった。
「誰かに口説き落とされたか?」
「……さぁ?」
「まさか、お持ち帰りされたなんてことはないだろうな?」
明彦に見送られて新宿線に乗り、常識的な時間に帰ったではないか。有紗は何も答えず、鼻から長い溜息をつくと、ワンピースの裾に糸くずが付いているのに気づいて摘み取った。その揃えた脚の上に、トン、と投げ置かれた物が跳ねた。眉間を寄せて運転席を見やると、信也は相変わらず険しい顔をしていた。
「……されてません。お持ち帰りなんて」
「そんなことは分からないじゃないか」
「早い時間に帰ったでしょっ?」
黒光りするシリコン製の張形は、信也の低劣な淫妄を凝縮しているかのようだった。
「信用できない」叔父は前方に注意しながら、チラリとだけ有紗を見ると、「挿れろ、そこで」
「いや」
「無理やりブチ込まれたいか?」