和州道中記-1
新緑が薫る良く晴れた日には何とも似つかわしくない、ある昼下がり。
「何や、見掛け通りに弱いやっちゃな」
「命まで奪っていないことを感謝しろ」
そんな男女の声。
その声の主達と対峙するは、それぞれが負傷した数人の山賊達だ。
悔しげに歯噛みして、小汚い覆面をした山賊達は森の中へと去って行った。
この和州で、しかもこの御時世に、このようなことは別段珍しくもない。
現に彼等…旅人である一紺(いっこん)と竜胆(りんどう)の二人は、今日だけで三度も追剥やら山賊やらに出くわしていた。
そして、二人はそんな輩をいずれもてこずることなく追い返したのだった。
「ほな、行こか」
変わった訛りでもって、頭に手拭を巻いた男――一紺が促すと、暗緑色の艶やかな髪を結い上げた女――竜胆は頷く。
二人はそうして今まで歩いていた村までの道を再び歩き始めた。
日が落ち、辺りが橙から藍へと染まる頃。
一紺と竜胆は小さな片田舎の小さな宿屋に泊まっていた。
「あんなに山賊等に会うなんて、思わんかったわ」
「全くだ」
一紺の言葉に、女性にしてはやや低い、口調も男のような声で返すは竜胆。
「あ、俺ええこと思いついたわ!」
「何だ?」
一紺は満面の笑みを浮かべて答える。
「逆追剥。山賊やらを捕まえて、逆に金目のもんを奪うんや」
「却下、そんな真似はしたくない。…お前、前にも同じことを言っていなかったか?」
竜胆は冷たく彼の意見に答え、呆れたように言った。
「ええ考えや思たんやけどな…」
「そんなこと考えてないで、今日は早く寝ろ」
既に敷かれた布団に転がる一紺を見やり、竜胆は言った。
一紺のものとは少し離して布団を敷き、彼女は薄暗い明かりを消す。
「お休み」
竜胆はそう言うと早々と寝入ってしまった。そんな彼女を見て、一紺はいつものように溜息をつく。
(…どうしてそんなに平常でいられんのや)
これは、どこの宿屋でも同じことであった。
十九歳のうら若き男女がこうして同じ空間で寝泊まりをするのも、彼等にしてみれば毎度のこと…当然だった。
それは金がないという単純な理由からである。
そしてもう一つ、竜胆が男というものを全く意識していないからだった。
(少しくらいは意識したってええのとちゃうか?)
一紺の方はずっとそう思っているのだが。
彼等がひょんなところで出会い、旅に出て早一年。
しかし、その一年間ずっとこの状態なのである。
一紺も男だ。
夜、傍らに女。二人だけ。理性が保てなくなっても仕方はないが、彼にはそう出来ない理由があった。
結論から言うと、彼は竜胆に惚れていた。
同じ部屋で、年頃の男女が一晩を過ごすことに疑問を持たない竜胆に、一紺は手を出すことが出来なかった。
彼女を抱きたい気持ちだって勿論あるのだが、大事にしたい気持ちの方が強かったのだ。
いや、実は一度だけ、酒を利用して竜胆に迫ったことがあったのだが。
『竜胆、たまには酒でもどうや?』
『いいな、一口貰おう』
――その結果はこうだった。
『うあ〜…俺もう酔っ払ったみたいや。目の前がぐるぐるしとる〜』
言って、竜胆にしな垂れかかり…そのまま彼女を押し倒した。
組み敷き組み敷かれ、見つめ合う二人。
『…竜胆』
呟く一紺。
『一紺…』
呟く竜胆。彼女は、そしてこう言ったのだった。
『重いから退いてくれないか』
…彼女の方は、一紺を全く男として見ていなかったようなのである。そして、今も。
この一件のせいで、一紺は余計に彼女への想いを打ち明け難くなってしまったのだ。
おもむろに一紺は眠っている竜胆を起こさぬよう立ち上がり、厠(かわや)へと向かった。
月が美しい夜。
一紺は独り淋しく己を慰める。
哀しきかな、これは既に彼の日課のようなものであった。
年頃の男なのだ。発散しなければ、溜まるわけで…。
「…んッ、く、竜胆…ッ」
呟きながら自身を扱(しご)く手に力を込める。
自慰に励みながら思うのは、やはり彼女のこと。
「くぅ…ッ」
そして達する。手の平にぶちまけた白濁液を見つめ、溜息をひとつ。
愛する女はやはり抱きたい。それこそ犯したくなる時だってあるが、しかし彼女を傷付けることや、彼女と気まずい関係になるのは嫌だった。
何とも惨めな気持ちに、彼は再び溜息をつく。
「…寝よ」
言って、一紺は部屋に戻って行った。