4. Speak Low-19
着く前から不安になるようなこと言わないで。平松から聞かされているのは、彼の母親はもともと横須賀のほうで貿易商を営んでいた裕福な家庭の三人姉妹の長女らしい。血族承継はせず家系ではもうその会社に携わる者はいない。今は金持ちでもなんでもないよ、と平松は言っているが、素性は上流育ちで厳しい人ではないかと想像された。悦子と付き合い始めてから、息子は殆ど家に帰ってこない。彼女の家に泊まっている、と家にはそのまま伝えているらしい。この歳になってとやかく言われたくないよ、とカッコつけているが、母親の方は付き合っている相手は何とふしだらな娘なのだろうと憤っているのかもしれない。失礼ですけどおたくのような方は宅の嫁として相応しくありません、と会うなり毅然と言われてしまうのでは? よしんば嫁として認められたとしても、あまり家事ができない悦子に呆れ、まぁ会社のお仕事は優秀でいらっしゃっても、家庭のことは全くですのねぇ、と日々イビられる私……。
「……私のこと、ちゃんと守ってね?」
「は?」
妄想を繰り広げていた悦子が呟くと、平松は何のことやらわからない反応を見せたが、朗らかな笑みを浮かべて、「大丈夫。悦子見たらビックリするよ」
「なんかふしだらな年上のオバサン来ちゃうから?」
「とてもキレイなお姉さんが来るから」
「……からかってる?」
「半分」
と言って平松は笑った。「でも、今日の悦子の恰好新鮮でいいね」
顔が赤らみそうだったから思わず目を細めて、
「公衆の面前で変なこと言わないでください」
と小声で言った。
「考え過ぎだよ」
何を言っても、何を言ってもらっても不安がゼロになるということはありえなかった。悦子はそれから少し黙って窓の外を流れる景色を見ていた。普段乗っている路線に比べて横浜線はノロノロと、まるで悦子をじわじわと深い緊張へ追い込んでいくかのように思えた。
長津田で降りた。横浜の端、次の駅は一旦東京都に入る。駅舎の窓からは住宅街が広がっているのが見えた。着いてしまった……。
「あれだよ。少し歩くけど」
平松は出口を出るなり少し離れた高台に建つマンションを指し、悦子を導いて歩き始めた。常に目的地を見ながら歩くのも緊張を煽ってくる。こんなに緊張するのはいつくらいだろう。入社試験だって昇格試験だって上席を前に緊張はしなかったし、プレゼンを務めた重要顧客の役員の前でもここまでではなかった。
「しょ、翔ちゃん……」
線路沿いの道を歩きながら、悦子が少し歩みを緩めた。
「……悦子、大丈夫?」
部屋で二人きりではないのに、愛称で呼んだ悦子へ平松も呼び捨てで応えると、悦子を待ってすぐ隣に寄り添ってくる。
「大丈夫じゃない。口から心臓出る。……内臓ぜんぶ出る」
「……そんなに?」
職場での悦子からは想像できない様子に、平松は何故か嬉しそうな顔になって手を握ってきた。横浜線のこの先には相模原センターの最寄り駅があるから、悦子の事を知る連中がいないとも限らないが、平松の手を握り返して本当に泣きそうな目で見つめた。
「大丈夫だって、悦子なら」
「何を根拠にそんなこと言ってんの?」
「悦子と結婚したいから」
「……」
悦子は立ち止まった。平松の方を向いて暫く見つめた後、清純に見えるようにまっすぐに整えて下ろしている髪を揺らして来た道と行く先を窺った。後方には駅の方から歩いてくる主婦らしき人が一人。前方には同じ先に向かう一人の背中と、さっき追い越していった自転車。最寄りの信号は赤だから車は来ない。悦子はさっと身を寄せると、平松の唇を啄んだ。
「なんか急に大胆だね」
平松が悠然として囁いた。ジーンと胸が和みながら、道端でこんなことをしている気恥ずかしさに平松の顔を見れず髪を垂らして俯くと、
「……結婚、するんだよね。わたしと翔ちゃん」
と言う。
「うん、そうだよ」
「絶対?」
「絶対」
「……、わかった。行く」
と言って悦子が歩みを再開しようとすると、平松が悦子の手を握って押し止めた。振り返った悦子にタイミングを合わせるようにして頬に手のひらを添えると、もう一度身を寄せてくる。
「ちょ、ちょっと変な気起こさないで……」
「もう一回しとかなくていい?」
そう言われると、しておいたほうがいいような気がする。瞼を落としながら寄ってくる平松の唇を迎えて顔を寄せていく最中に駅の近くだからスピードを抑えた東急線が走ってくるのが見えたが留めることはできなかった。車輪がリズミカルにすぐ傍の線路を踏んで駆け抜けていく音を聞きながら、さっきより長い時間唇を交わした。そしてずっと手を繋ぎながらマンションまでの道程を歩いた。少し緊張が和らいだ気がする。
「地元なのに手繋いでて大丈夫なの?」
「……なんで?」
「いや……、はずかしいかなって思って」
「冷やかされたら照れるけど、別に悦子なら見せびらかしたい」