4. Speak Low-14
何の声がけもなくバン、と襖が開くと幸久が立っていた。奥から、こらぁ、と早智の大声が聞こえる。
「あ、幸くん、久しぶりー!」
幸久も見違えて大きくなったが、俊久と比べて子供々々していた。ニコニコと楽しそうな笑みを向けて、
「悦子おば……」
と言いかけて、目に見えて、しまった、という顔をしてから、「お姉ちゃん、久しぶりー」
と、ずかずかと中へ入ってくる。
「おい」
悦子は睨んで幸久の足を軽く叩いた。「今、おばちゃんって言いかけたろ?」
兄弟ともども小さい頃からお姉ちゃんと呼べと刷り込んできたつもりなのに、いま言い間違えたところから察するに裏では思い切りおばちゃんと呼んでいるようだ。だが悦子に窘められてバツの悪そうなごまかす笑みを浮かべているのが可愛らしい。
「こら、幸久、ちゃんと挨拶したんか?」
遅れて襖のところまでやってきた早智を振り返りもせず、
「したしたー」
と言う。ウソつけ、と思いながら、
「大きくなったねー。幸くんも野球やってんの?」
と言うと、
「ううん、やっとらん。練習とかめんどくさいけ」
さも当然のように言う。子供の訛りは可愛いなと思いながら、ほんじゃさぞかし勉強してんのやろね、とつられて訛りを出した悦子の背後をチラチラ見ていた幸久が、
「この人だれ?」
と訊いた。んー、と子供になんて紹介しようかと思ったら、「お姉ちゃんの恋人?」
と機先を制してくる。狼狽えた悦子だったが、幸久の指摘は本当のことだったから、
「そ、そうだよ。平松さんっていうの」
と言って、平松を振り返り、「えっと、下の子。幸久くん」
「こ、こんにちは。ひ、平松翔太といいます」
子供に対しても同じ挨拶か、と笑いそうになって幸久を向き直ると暫く平松を見ている。あ、子供だから気遣わず何でも言っちゃう、と思って、平松が傷つかないように話題を別に振り向けようとしたら、
「物好きだね」
と言った。いや、幸くん、オトナってのはね、見た目だけでは……、と子供に人間愛の素晴らしさを諭そうとしたところ、「悦子姉ちゃんのどこがいいの?」
お前もか! 昔はお姉ちゃんと結婚すると抱きついたじゃないか!
「失礼なこと言わんでよ。こん人はねー……」
子供相手にムキになって反論しようとしたところで、みたび玄関先で物音がした。どん、と小上がりに足をつく。俊久も幸久も帰ってきた。玄関先を向いた早智が、あー、という横顔をしたあと、和室の方を向いて口パクをした。何と言ったのかはわからないが、帰ってきたことは分かる。襖の向こうから母親も現れて、
「帰ってきたかぁ。……もう来てるら」
と玄関先に声をかけると、んーそうけ、と声が聞こえてきた。間違いない。
「幸久、おいで」
早智が座卓の上のアルバムを慌ただしく手に取ると、幸久を羽交い締めにして部屋の外へ引きずっていく。入れ替わりに――、ついに父親が現れた。入るなり悦子を威圧的に見下ろす。その顔は相変わらず陽に焼けて強面だったが、五年ぶりに会った父親の体は一回り小さくなったように見えた。歳のせいで筋肉が落ちるのは無理はない。坊主に刈り込んでいる頭は白髪が多くなって灰色になっている。父ちゃんはあそこ、と背後から母親に言われて、奥の座布団へ向かう。足を引きずっていた。悦子は、やはり父親が前に会った時に比べて弱くなっていると思えた。
「なんや、悦子、その座り方は、あ?」
座卓の向こうに座りながら、眼光鋭く悦子を見据えてきた。ハッと気づくと、悦子はアルバムを眺めた時のまま足を投げ出した座り方になっていたのを慌てて居住まいを正した。いつの間にか傍らの平松は座布団から降りて畳の上に正座している。汚えなおい、と思いながら悦子も正座で背筋を伸ばした。
「……ちょいと足やっちまったもんで、失礼しますよ」
父親はあぐらをかかずに片足だけ立てた座り方で座布団に腰を下ろした。そして、まあ、どうぞ、と手のひらを差し出して平松に座布団を薦める。
「し、し、失礼します……」
声が出ていない。父親の醸しだすオーラに完全に呑まれてしまっている。昔はこんなものじゃなかったんだよ?、と言ってやりたいが、父親の前でもあるし、何より平松にとっては何の慰みにもならないだろう。唾を飲み込んでいる平松を、座卓の下でちょんちょんと足を突ついて合図をしてやると、あ、と思いだしたように、
「こ、これ、つ、つまらないものですが……」
と傍らに置いていた紙袋を差し出した。酒が好きな父親が特に好んで飲む大吟醸だ。
「いやぁ、どうもすみませんね」
丁寧語は使っているが、声が太く低い。地声なのだが平松には威嚇にしか聞こえないだろう。もうだめだ、兄夫婦に会わせる、次に母親に会わせる、そうしてレベルアップしてから父親に会わせるべきだったと、いきなりの地獄に連れてきてしまったことを後悔した。