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報われない一日
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報われない一日-4

 煙草がフィルターまで焦げ付いていた。
(やりきれない……)
すべてが浪費だ。
 僕はディスプレイに目を移す。あと半分だ。いや、半分もない。それで仕事は終わる。しかしそれは3時までに終わらせる予定になっている。慌ただしくなっているのは邪魔が入ったからだ。そうでなければ……。

 電話が鳴った。耳に障る。
(知るもんか)
僕は立ち上がって本棚に目をやった。電話は鳴り続ける。
 1冊の本を手に取った。
『近世社会の市場構造』
自分で買ったのか?覚えがない。寄贈されたにしてはかなり古い。学生時代に使った記憶もない。何かの資料として必要だったのかもしれないが、思い出せない。
 僕は電話を振り返り、ゆっくり本を棚に戻した。電話はいったん切れ、10秒も経たないうちにまた鳴り始めた。
 時刻は昼になろうとしている。僕は大きく息を吸い込んでから腹に力をこめて叫んだ。
「いいかげんにしてくれ!」
気を静め、それから受話器を取った。

『お願いですから……』
「わかった……」
妻をなじっても仕方がない。彼女だって困り果てている。
「どうすればいい」
優子が言う金額を聞き、
「ファックスで口座を送ってくれ。明日振り込む。それでいいか」
『ありがとう。彼女、喜ぶわ』
「仕事が詰まってるから切るぞ」
息子に代わられてはたまらない。

 ペースは戻らない。僕の思考力は鈍っていた。進んではいるが、流れがない。
(2時半……)
3時にはとても終わらない。もう少しなのだ。だが3時はきつい。
 外の木々が騒がしく揺れている。風が強くなってきた。そういえばそんな天気予報を耳にしたかもしれない。
(気が滅入る……)

 ドアがノックされた。返事をして振り向くと手嶋聡子の顔が覗いた。
「なにか?」
「今日は早めに上がらせていただくということで……」
「ああ、そうでしたね。お疲れ様」
今夜は奈津子と楽しむのだった。

 背を向け、キーを打つ。ドアの音が聴こえない。振り返ると聡子がまだ立っていた。
「どうしました?」
聡子は縮こまって頭を下げている。
「はい……」
「何か用事でも?」
聡子の顔は苦しそうに歪んだ。
「実は……お願いがありまして……」
僕が煙草を取ったのはいやな予感がしたからである。

「お願い?」
「ええ、お願いというか、ご相談が……」
煙を吐きながら黙っていると、聡子はふだんの物言いからは考えられない早口で用件を述べた。驚くことに少しの謙虚さも交えずに。
 入院している娘の医療費がかさみ、さらに新しい治療を受けるとなるととりあえずまとまったお金が必要になる。母娘ふたり、一人娘が不憫で、頼る親戚も遠縁で行き来もない……。

(それだけか?……言うことは……)
僕は心で吐き捨てた。 
「手嶋さん」
「先生!お願いいたします!」
突然土下座して頭を床にこすりつけた。
「手嶋さん」
「先生!」
「……いくらいるんですか?」
「はい。200万ほど……」
僕はもう何も言わなかった。一刻も早くこの女に消えて欲しかった。


 僕だって順風満帆に今の地位を築いたわけじゃない。いくつもの文学賞に落選して、下積みに耐えてきたし、最終候補に残りながら受賞を逃す辛酸も舐めてきた。人にはわからない悔しさもあった。プライドにかかわることは妻にだってわかりはしないし、話すつもりもない。

 計画は狂っていた。3時はとっくに過ぎている。すっかり腹が減った。喉も渇いたが、仕事を続行しなければならない。決めたことは遅れが出たとしても完遂するのが僕の主義だ。アクシデントはいつだって起こり得る。投げ出して仕切り直しするのは嫌だった。

 ふたたび気持ちが一定方向に向い始めた。それからは早かった。陽が傾いて部屋が薄暗くなるのにも気付かずに画面に集中した。

(やった……)
達成感よりもどっと疲れを感じて天を仰いだ。
 こんなに入れ込んだことはない。奈津子とは久しぶりだ。彼女との時間をたっぷりとるために……。それもある……が、それだけではない。むしろ重なった煩わしさに対する意地のようなものだったかもしれない。
(何にしてもよかった……)
すぐデータをメモリーしてからプリントする。
 僕は煙草をくゆらせながらその様子を見つめる。繰り出されるペーパーには僕の作品がくっきりと印字されている。ほっとした気持ちのやわらぎと心地よく胸に舞う煙草の刺激。このひとときが何ともいえず、いい。
 
(さあーー)
原稿を封筒に入れ、メモリーをポケットに押し込んだ。
 まず、姫岡に連絡して、それから奈津子に時間の変更を伝えなければならない。    
 上着を着て携帯を掴んだところでにおいが鼻をついた。 
(きな臭い……)
灰皿を見る。吸殻はくすぶっていない。
 なんだろう。煙草の煙とは異なった刺激臭がする。窓の外を見て視界が一瞬閉ざされ、すぐ開けた。薄暗い。
(雨か?)
強風に煽られている木々が見えなくなり、事態を察した。同時にサイレンが聴こえてきた。
(火事だ!)
窓を開けて首を出した。
(隣だ、いやその向こう)
空を被う黒煙の中に炎が見えた。風は我が家に向かって吹いている。

 叫び声や誰かの怒鳴る声が響いて外は騒然としてきた。
(なんてことだ!)
慌てて通帳と印鑑、小切手を持ちドアを開けてから原稿を掴んで階段を駆け降りた。
 けたたましいサイレンを鳴らして消防車が次々と到着する。向いの道路はごった返して緊張した声が飛び交っていた。

「早く避難してください!」
玄関に消防士が飛び込んできた。
「他に誰かいますか!」
「いや、いない」
「早く出て!」
「僕の家はどうなる?」
僕の声は震えていた。
「わかりません!とにかく避難を」
消防士は力任せに僕の腕を掴んだ。 


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