略取4-1
歩んできた人生で大きな出来事といえば、学生時代に奈津子と出会ったことだ。今となってはあまり思い出したくはない。ささやかな喜びはあったが辛いと思えるような出来事は記憶にない。いずれにしても平坦極まりない人生を歩んできたということだ。
そんな人生にも奈落があった。人に対して殺意をもったのは初めてだった。恐ろしい感情を持っていたことを知る。田倉の罪はそれもある。数日間、部屋にこもって泣いた。何と格好悪い男だろう。こんな程度の男であることがよくわかった。変化に対応できずにひ弱、全てが脆弱なのだ。それを押さえ込むために殻に閉じこもった。
娘が家出した。奈津子のうろたえかたは尋常ではなかった。オロオロすることしかできない義雄と相反し、髪を振り乱して娘を捜し回った。その甲斐もあり娘は戻ってきた。多くを語らない娘を腫れ物に触れるように扱った。
よほど急いでいたのだろう。娘の居場所がわかったので行ってきます、と走り書きのメモ紙は筆圧で破れていた。そのまま奈津子は帰ってこなかった。いきなり離婚届が送られてきたときは、田倉との不倫を知ったときよりもショックだった。節操のなさを恥じ、わびる言葉をしたためた手紙が同封されていた。とある素封家の家で家政婦のような仕事をしていると書いてあった。どうやら一人暮らしの老人らしい。
あのとき、怒りにまかせて追い出そうとしたが声に出なかった。元よりそんな選択はなかったのだ。奈津子のいない生活がこんなにも虚しいとは……。その離婚届を未だに手元に置いてある意気地なしだ。
岩井代議士から直接電話をもらったときは驚いた。奈津子に身の回りの世話をお願いしていると、塩辛声で丁寧に説明した。居場所が分かったのでとりあえずはほっとした。
そのことを知った下村秘書は何と奈津子に会ってきたと言う。義雄は心を打たれた。その下村秘書が長期休暇をとるらしい。前日に仕事の話しをしたが、いつもの健康そうな笑顔だった。休日に急に体調を崩したのだろうか。
彼女はどんな人間でも分け隔てなく接することのできる人だ。義雄のみならず娘のことも心配してくれた。そして奈津子のことまで……。
今はどうしているのだろう。心配でたまらない。入院するらしい、といった情報は入手していた。家に来たときケータイの電話番号は交換していた。思い切って電話してみたがつながらない。住所を調べて会社の帰りに住んでいるマンションに行ってみたが誰もでなかった。
もう一度ケータイにかけてみた。長い時間耳に当て、切ろうと思ったときだった。「はい」と下村秘書の声が耳に飛び込んできた。
「し、下村さんっ、もしもし! 佐伯です。あ、あの……今、どこにいるの」
通じるとは思っていなかったので、しどろもどろだった。
「係長……ですか」
下村秘書の声はかすれていた。
「佐伯です。ああ、よかった。やっと声が聞けた」
「ご迷惑を、おかけして、すみません……ぁふんッ」
耳に吹きかけられたような激しい呼吸音にドキッとする。
「下村さん、大丈夫?」
「……」
通話が途絶えた。胸に不安が広がる。
「もしもし……」
あのときの状況が頭をよぎった。奈津子と不倫をしている最中の田倉と電話で話したときのことだ。
少しして「すみません」とうわずったような声が聞こえた。
「わたし、入院……していまして」
「あ、病院に、そう聞いていたんだ」
今さらのように思い出し、体の力が抜けた。
「ごめんなさい、今、体調がっ……ンンッ……」
「そうだよね。申し訳ないです。体調がいいときにでも連絡ください」
「す……すみま、せん……ッ」
突然音が聞こえなくなった。息を止めてケータイを耳に押し当てる。すると、「せ、せんせいッ……オォ!」と、悲鳴のような声のあと通話が切れた。
義雄は慌てた。近くに医師がいるのだろうか。もし近くにいなければ、取り返しのつかないことになりはしないか。病院なので誰かしらはいるだろう。そうは思うがもう一度電話をかけた。つながらない。向こうが取らないのだ。それとも取れないのか。