略取4-5
ハッとして顔をあげると肉の塊にかぶりつき、大量の煙をくゆらせている。嗅いだことのない匂いにむせるのを堪えていると、室内がぐらりと揺れた。
「妻の性欲を満足させるのは夫の役目。存分に可愛がってやりましたかな」
顔が熱くなる。
「独り身のワシが説教するのもおかしいですが、しかし、怠るとこうなる。そら、もっと飲みなさい」
促され、ワイングラスを持とうとしたが、腕を上げるのもだるい。
不意に岩井が立ち上がった。一面がガラス張りのところまで行き、「ここはな」と言ってコンと叩いた。分厚そうな音。ガラス張りに向かってソファーとテーブルが置いてある。置き方が何となく不自然に思えた。
今度は壁の端まで行き、操作パネルを撫でた。
「このスイッチを押すと」
突然、白いガラスが透明になり向こう側に室内が現れた。電気が消えて薄暗いがベッドが見える。どうやら寝室のようだ。
「こちらからは見えるが、向こうからは見えん」と言って、もう一度スイッチを押すと元通り真っ白になって見えなくなった。
「どうです? 佐伯さん」
「驚き、ました」
「そうじゃろう。ワシもこの部屋を借りたときには驚いてのう。案内した不動産屋に聞いたら、『どうお使いになっても』などとぬかしよった」
ここは賃貸なのだ。
「種を明かしますとな、あれはこの部屋の続きではなく隣の居住地なのです」
岩井は笑った。
「隣の住まい、ですか」
「だから驚いたのだ。しかし、この階は全てワシが借りているので、隣にはならんがのう」
「えっ、この階、全部ですか……」
業者がこんな仕掛けを作って貸し出すとは思えない。あとから岩井が作らせたのだろう。大金持ちの岩井であれば、考えられないことはない。
「佐伯さんも使い道を考えくれませんか。お宅の奥さんにもお願いしておるのだが」
岩井の顔が縦に伸びたり横に伸びたりしている。自分の体が傾いている気もする。こんな酔い方は初めてだ。岩井は大皿を持って食べ物を口の中にかき込んでいる。アルコールを水のように飲んでも全く酔ったふうではない。まさに怪物だ。
「そう言えば、お宅らは離婚されたのですな。元奥さんと呼ぶべきでした」
離婚届がまだ手元にあることは恥ずかしくて言えない。
「その元奥さんを今後はどうしたいのかな」
「それは……」
「まさか、よりを戻したいとでも思っているわけではなかろう」
岩井は頭をかいている。
「田倉さんの体に夢中だった奥さんを許せるのか」
辛辣な質問だったが、「はい」と答えた。
「ほう、そうか、そこまで許すか」といって仰け反った。
「その貧弱な体で女を満足させられるとは思えんが」と、吐き捨てるように言って、空の皿の上で葉巻を粉々になるまでひねり潰して立ち上がった。ワインと食べ物ののった皿を幾つか、ガラス枠の前のテーブルに移動させた。
「向こうで飲み直しだ」
いきなり骨が軋むほどの握力で腕をつかまれ、引きずるように連れていかれる。苦痛にうめく声など岩井は気にもせず、足をもつれさせる義雄をソファーに放り投げた。必死で背もたれにしがみつく。体調が悪そうに見えるはずだが全く意に返さない。義男の横に座りワインをラッパ飲みしてから、また葉巻に火を付けた。気分を害した理由がわからない。
体がソファーに沈んでいく気がする。もう返事もできない。口を開くのもだるい。力も入らない。痛い腕を押さえるのがやっとだった。