僕の愛したスパイ-4
4.
「見られちゃったのね」
吾郎が、離した身体を靖子の横に並べると、靖子が呟いた。
「毛のことか?」
「そうよ、いつかはこう言う日が来ると思っていたけれど・・・、」
「僕は、君が好きだ、その気持ちは今も変わらない」
「有難う、貴男でよかった」
靖子こと、北のエージェント、イム・ミヒョンとの関係は、その後も、つつがなく続いた。
二人とも、結婚については、口をつぐんだままだ。敵対国のエージェントと、結婚は出来ない。
レイプ同様な方法で関係を結んでしまったことについて、靖子は何も言わなかった。
逢う瀬を重ねるごとに、靖子は円熟して、悦びを現すようになった。
吾郎は、近く新聞に発表するような差しさわりのない情報を、靖子に流した。
靖子からは、これまた、他からすでに入っているような情報が、流れてきた。
戦争状態にあるわけではない。情報戦といっても、弾が飛び交い人が死ぬようなことのない戦いは、切迫感に欠けていた。
「病院に行ってきました」
体調が優れないと言っていた靖子から、メールが入った。
「いい話と、悪い話です。いい話、貴男の赤ちゃんができました。もちろん貴男と私の赤ちゃんです」
「そして、悪い話。すい臓に癌が見つかりました。入院をしますが、手術をしてもしなくても、結果は同じだと言われました。」
入院した築地の病院に、靖子を見舞った。
顔色は普段と変わりがなく、末期の癌とは思えなかった。
「すい臓がんは、見つかり難くて、見つかった時は大体手遅れなんですって」
吾郎の持参した、赤いバラをを見つめながら、靖子は何事もないような口ぶりで話す。
中年の男が、ベッドの脇に立っていた。靖子は、兄だと紹介した。
兄さんは、「一寸出てくる」といって、部屋を出て行った。
「お腹が大きくなったら、大阪に戻って、一人で育てる積もりでした」
兄が部屋を出るのを見て、靖子が呟いた。
「私、在日なのよ」
「知ってるよ。ミヒョン」
「なあんだ、知ってたのか」
「僕のことも知ってるんだろう」
「まあね」
「結婚の話、一度もしなかったわね」
「そうだね、僕たち、普通じゃないね」
「今度会うときは、アメリカがいいわ」
「オーストラリアもいいぞ」
「そうね、そして二人で子供を育てたりして」
「又、来るよ、ミヒョン」
「もう来ちゃだめ、貴男に迷惑がかかるわ。監視をされているの」
寂しげなイム・ミョンヒの顔が、涙の向こうに翳った。
「あなたには申し訳ないけど、この子と一緒に逝くから、寂しくないわ。ありがとうね」
廊下を足音が近づいてくる。
吾郎は、握っていた靖子の手を離して、ポケットに手を突っ込んだ。指先が、シグ・ザウエルP230SLの引き金に触れる。スイス製SP用小型拳銃のステンレス特別仕様だ。
ドアが開いて、兄さんが入ってきた。
吾郎は、靖子と目を交えた。これが、最後になるだろう。
兄さんに目礼をして、部屋を出た。