1. Someone to Watch over Me-8
「権藤さん」
部長席から声がかかった。暫くの間、聞こえる声は悦子の罵声だけだったから、合間に挟まれた部長の声は耳によく届いて、瞬間、悦子は激発から覚めた。しまった、と思ったが遅かった。平松が耳まで赤くして、椅子に座ったまま震えている。周囲を一瞥すると皆自分を見ている。いつも悦子の様子を見ていた同僚の目線は、どちらかというと悦子に同情的だったが、そんなことでは悦子の自己嫌悪を癒せなかった。職場の空気を悪くしてしまった。何とかしなければ。
「あ……。えっと、あ、あのね……」
悦子が声をかけようとすると、平松の背がビクッと跳ねた。自分の声に驚いたのかまたは恐れたのかと思ったが、それから断続的に体が震える。やがて悦子から見える平松の横顔で、睫毛から水滴がポタポタと落ち始めた。
「ちょっとっ!! あんた――」
何泣いてんのよ、と焦った大声で言いそうになった所で、
「権藤さーん」
ともう一度声がかかった。部長席を振り返ると、部長が真摯な顔で悦子を見ながら右手を指さした。指差す先には応接室。来い、という意味だ。部長がゴンちゃんでも権藤チーフでもなく、権藤さん、と呼ぶときは大真面目だ。悦子は力なく立ち上がると、頭に手をやりながら応接室へ向かった。部長は、トラブル先で陣頭指揮を取っていたが今日たまたま戻ってきていた課長に向かって平松を指さして、ケアしろという指示を与えたあと、応接室へ向かった。
先に入った悦子が肩を落として待っていると、あとから部長がコーヒーの入った紙カップを持って入ってきて正面に座った。あちっ、と自分の分を啜って顔をしかめる。
「ま、……何だ、人を育てるってのは大変だろ?」
「ええ、まぁ……、はい」
部長席から声をかけられた時の表情から厳しく叱責されるものと思っていたが、部屋に入ってきた時にはいつもの、気のいいオッサン、といった安穏とした風姿になっていた。
「ゴンちゃんが面倒見がいいのは知ってる。去年のプロジェクトでもそれで助かったからね。でも言うなれば、去年は同僚・仲間として『助けた』ってことだよ。……今年は違うよな? チーフになったってことは『育てる』ってこと。しかも、職務として。ていう意味では、平松君は、ゴンちゃんが初めて育てる部下ってことだ」
「はい……」
「確かに平松君は……」部長はドアの向こうを気にしたあと、少し小声になって、「ひどい。あれじゃちょっと客先に出せない。それにま、ゴンちゃんが叫んだとおり、あまり考えて仕事をしてるようには見えないね。……何故だろう、って考えたことある?」
「……ヤル気が無い、ように見えます」
悦子は落ち込んだ心の中、今日までの平松の働きぶりを思い返していた。どの場面を取っても、ヤル気が感じられなかった。
「ヤル気。なるほど。……ゴンちゃんの言う『ヤル気』ってどういうこと?」
「えっ」
予想外の質問に悦子はたじろいだ。「それは……、なんて言うか、主体的というか、前向きというか、……えっと、仕事をするために自分から動く、っていうか」
上手く言えなかった。悦子のたどたどしい回答に部長はコーヒーを啜りながら頷いている。
「ま、何て言うかさ、軽々しく言うの、僕は嫌いなんだけど、『意識付け』とか『マインド』とかって言ってるやつ?」
「はい、そういうことだと思います」
「……じゃ、さ。ゴンちゃん、平松君にヤル気が無いの分かってたんなら、ヤル気を出させるような教え方、した?」
「それは……」
そう言われて、全くしていない、というのが直ぐに悦子の頭の中に浮かんだ回答だった。そこに気づかずにいた自分に情けなくなり始めた悦子の微細な反応だけで、部長は頷いて、
「でしょ?」
とコーヒーカップを手に持ったまま悦子に人差し指を向けてみせた。何だよこのハゲオヤジ、ちょっとカッコいいじゃん。「たぶんさ、ゴンちゃんが今日までやってきたのは、仕事をやる方法を教えただけ。これじゃ部下は育たないんだ。上司が教えるのは仕事の目的だったり、目標だったり、それどころか、仕事をする動機まで教えてあげなきゃいけないんだな。まったく、大変だよ」
正面から手のひらでテーブルに置かれたコーヒーを薦められて、悦子は手にとって啜った。熱さが喉から胸に降りてきて落ち着いてくる。頷きを入れ始めた悦子に部長が続ける。
「方法なんていくら教えてもらったってヤル気なんか出ないよ。ま、そりゃあね、この会社にいるってことは、自分の意志で採用試験受けに来て、自分の意志で入社したってことだから、タテマエを言うと会社の仕事をするにあたってヤル気があるのは当たり前、ってことになるよ? でもさ、まあ、現実そんなわけないよな?」
「……どうしたら、いいんでしょうか」
珍しく殊勝な悦子の態度に部長が笑った。少し恥ずかしくなって下唇を噛みそうになったが、部長の訓戒が身に沁みて、その禿頭の笑顔に釣られて口元は照れたような笑いに変わった。このオッサンが部長席に座っている理由が改めて納得できた。だから恥を忍んで訊ねてしまおうと思った。