1. Someone to Watch over Me-5
悦子はもう手づかみでセンマイにごま油をつけると、高く掲げてぶら下げて、直下に開いた口の中に入れた。
「来るよ」
知らないけど。今日この場を乗りきれればいいか、と美穂は無責任に悦子を励ました。
「……じゃあ、それを楽しみにしよう……。そんくらいしかない」
いやしくも長職が自分の部下となる者の第一印象でがっかりするなんてあってはならない。
「平松翔太……です。よろしく……、お願いします」
頸だけを動かす礼をされた。あ?、聞こえねえよ。悦子は、よろしく、と言いながら鋭い光を宿して部長を見た。部長は悦子の視線の意図を感じ取って背筋を凍らせながら、
「ま、入社5年めの伸び盛りだからね。ゴンちゃんよろしく頼むよ」
と笑みを何とか作った。ゴンちゃんという呼び名をいつまでたってもやめてくれない。飲み会の席で酔っ払って、権藤という苗字が可愛くなくて嫌いだ、と言ってしまったがために、その場で盛り上がり、「ゴンちゃん」が可愛くていいんじゃないかという結論になった。いや可愛くないし。しかし悦子の異議は場の一体感にかき消されて、上職層からは公式な場でもない限りこの呼称が定着してしまった。
引きあわされた男はびっくりするほど覇気が感じられない。部長の言葉を皮切りに、ひと通りの自己紹介でもあるのかと思っていたら直立不動だ。おっ、なんだ、有名な権藤チーフの前で緊張しちまったか、と部長がみるみる顔つきが澱んでいく悦子に気を遣って作り笑いを続けたが、平松はええ、まぁ、と言っただけだった。なんだコイツ、悦子は目すら合わせてこない平松を睨んだ。緊張と言うのとは少し違う。どことなくここに居ることを不服に思っているようだ。
職位上、ルックスのことをとやかく言いたくはないが、平松の見目は悦子を落胆させずにはいられなかった。背は自分と同じくらいか、ひょっとしたら少し低いかもしれない。色白で肉付きが良く、頬が赤いのは緊張とは関係なくもともとの色づきだろう。周囲を刈り上げているヘアスタイルも野暮ったく、量販店で買ったのであろうスーツは、体躯の幅を優先したためか身丈も袖丈もサイズが合っておらず大きく見える。そのだぼっとした衣服の形状を好意的に差っ引いても、その中の体つきに緩みを容易に想像できる。業務ではしょっちゅう顧客の前に出る。見た目の印象は重要だ。そんな底がすり減ってくたびれた靴だと、好印象を持たれるはずがない。
何より、今日のこの時に一縷の期待を持って、普段より入念に化粧をして、プレゼンや顧客経営層と会うときくらいにしか着ないブラウスを選んで着てきた私の労力をどうしてくれるんだ。悦子は美穂に乗せられて、頑張ってしまった自分の浅はかさが恥ずかしくて、誰か人のせいにしたいくらいだった。美穂がここに居ないのならば、目の前のコイツに怒りの矛先を向けてしまいそうになる大人気ない自分を懸命に押し留めた。部長が彼に何か言っていたが、悦子の頭には入ってこなかった。
「……慣れないうちはいろいろ大変だろうけど、頑張ってくれ」
平松にというよりは悦子のために場を和ませようとした部長の言葉に、初めて平松が口を開いた。
「あの……」
「ん? なんだ?」
「今日は何時まででしょうか?」
「……はあっ!?」
部長より先に横で聞いていた悦子の口から、チーフになって以降、組織円滑化のために職場では努めて押し留めていたイラつきの返事が出てしまった。時計を確認するまでもなく、まだ始業から三十分も経っていない。
「……何か用事でもあるのか?」
すぐ側から漂ってくる悦子の温度感に慄きながら部長が尋ねた。
「私用です」
「……それってどうしても今日じゃなきゃいけない用事?」
社員の中には様々な家庭の事情を抱えている場合もあるから、悦子は最大限汲んでやりたいと思っている。だが、それならまずその事情とやらを話せと思わずキツめの言い方で質してしまった。
「できればです」
「くっ……」
だからできればそうしたい理由を話せ、仮にも上司と組織長の前のオフィシャルな場だ。チーフになって随分堪忍袋の緒が長い方になったので、呻き声を漏らして今声帯を震わせそうになった言葉を何とか飲み込んだところだったが、緒が短い時代を知る部長には悦子の内心は筒抜けで、
「そうか。……まあ、希望なんかは何でも権藤チーフに相談したらいい。……おっと、もうすぐ会議の時間だ。詳しい仕事の話は、権藤チーフからお願いね。平松君の席は、あそこ」
と態とらしく腕時計を見てから悦子の隣の席を指さした。
「はい」
「じゃ、頑張って」
「はい」
平松は自分の席の方に向かっていった。溜息をついて自分の席に戻ろうとした悦子だったが、思い直して部長の方を振り返る。
「あの……」
「言いたいことは分かる。分かるんだけど、何とか一つ、よろしく頼むよゴンちゃん」
悦子が言う前に部長が小声で手のひらを立てて謝ってきた。