D.-6
「料理出ます」
今月から悪夢のような本当の話が始まった。
「田辺、そこのブラックペッパー取って」
湊はフライパンを煽りながら田辺未央に言った。
「はいっ!」
「松谷。これ5番持ってって。その後6番にコレ」
松谷は焦ることなく「はいよ!」と元気に返事をした。
「あの…五十嵐さん。あたしにも何か出来ること…」
「あ?ねーよんなもん。ホール出るか?」
「え…」
「大変そーだもんな、松谷」
湊はホールを飛び回る松谷を遠い目で見た。
席数はそれほどないが、今日は満席であり外にも列を作って並ぶ客がたくさんいる。
「お前がキッチンやりてーっつったからこーなってんだよ。責任持って勉強しろ」
「…はい」
未央は俯いてメモ帳をギュッと握った。
「田辺。その洗い物やっといて」
「はい」
佐伯はサロンを直しながら未央にそう言った。
翌日の仕込みをしていると今度は「五十嵐」と自分が呼ばれる。
「はい」
21時過ぎ。
キッチンも落ち着いてきた。
佐伯が「ちょっと来い」と手招きする。
急いで洗い物をする未央をキッチンに残し、裏にあるフリーザーの前で立ち止まる。
「忙しくてイライラしてんのか?」
佐伯が静かに問う。
「そう見えます?」
「それとも田辺に教えるのが嫌か?」
湊は何も答えなかった。
「お前、ここに来てからまだ4ヶ月だろ。でもな、すげー成長した。驚くほど。だから手放したくない人材だ。だが…長くいられるほど簡単な社会じゃない。常に新しいものを育てなきゃいけねーんだよ」
佐伯の言っている意味が、よく分からない。
「お前のことを見放したりはしねぇ。ここで美味いモン作ってもらいてーし。…お前の味を田辺にも教えてやって」
「……」
「あいつが出来るよーになりゃ、俺らの休みも増えるからよ」
最後の言葉は冗談だろう。
佐伯は目尻に皺を浮かべて湊の肩を叩いた。
素直に受け止めればいいのか、それとも疑った方がいいのか…。
彼の言葉の裏は何だ?
仕事を終え、帰宅したのは0時ちょっと前だった。
今日は早く終わった。
車から降りてリュックを引っ掴み、マンションのエントランスをダラダラと歩き、オートロックを解除する。
ポストを確認していると、同じマンションの住人と思われる男がオートロックを解除して入ってきて同じようにポストを確認し始めた。
またダイレクトメールやら要らない地域情報誌やらが入っている。
湊は支払いの必要があるものだけを整理しながらエレベーターのボタンを押した。
12階まで行ってしまっている。
ダラダラと降りてくるエレベーターの階を見ていると、先程の男が少し後ろに立った。
間もなくしてエレベーターが到着する。
湊が「3」のボタンを押すと、後ろから入って来た男は「9」を押した。
その時、肩がぶつかった。
「…失礼」
「スンマセン」
男の顔を見る。
目が合う。
「風間の彼氏?」
「は…?」
黒い短髪の男はそう言った。
突然のことすぎて、わけがわからなくなる。
そしてなんだか、油っこい臭いがする。
「だよな?」
「なんで…お前に言う必要あんの?それ」
「瀬戸薫。風間と同じ病棟……の、だいぶ先輩」
瀬戸と名乗る男は不敵な笑みを浮かべた。