D.-3
気付いたら8月も終盤。
独り立ちもわりと慣れてきた…はずだった。
「ねぇ風間さん」
「はいっ?!」
日勤終了後、夜勤の堀越が険悪な形相でメガネを右手で上げながら陽向の目の前に現れた。
「な…なんかありましたか?」
「12号室の西田さんの点滴見てきてよ」
言われるがままに12号室へ飛び込むと、西田さんはシワシワの顔を綻ばせて「夜勤の人ー?」とにこやかに笑った。
「あたしは日勤ですよ。もう帰るんですけど、ちょっと最後に点滴見ますね」
苦し紛れの嘘を言い、点滴を見て青ざめる。
てか、まだ全然帰れないけど。
「あ、そーなんだよ。すっからかんなんだよ。まだこれやるのかな?」
0時まで残っているはずの点滴が空っぽになっている。
脳天から冷たい何かが降り注ぐ…。
「あ、新しいの持ってきますね」
「まだやるのかー。分かったよ。ありがとうねー!」
西田さんはなにも理解していないようだ。
しょうがないか、認知症なんだから……いやいや、今はそんなことよりあの点滴をどーにかしないと…。
ステーションに戻ると堀越がさっきと同じ顔で立っていた。
「あ…」
「で、あれどーすんの?」
「ちょ……あ…新しいの入れてもらいます…」
陽向はうなだれながらパソコンの前で大量の薬をチェックしている瀬戸の横に立った。
あれから奇跡的に?瀬戸と勤務が同じになることはなかった。
報告以外で声を掛けるのは気が引ける…。
でも言わなければ…。
「せ…瀬戸さん…」
「あ?」
睨み付けるように瀬戸がこちらに顔を向ける。
一瞬、ドキッとする。
「あの…12号室の西田さんの点滴が……その…か、過剰投与しました…」
陽向が正直に言うと瀬戸は「あっそ」と言いながらおもむろに立ち上がり、常備してある同じ種類の点滴を引き出しから取り出して陽向に投げた。
「これ繋げ」
「え…」
「もうないんだろ?早くやれよ。点滴落ちなくなるぞ」
陽向は急いで受け取った点滴を西田さんのところに繋ぎに行った。
西田さんはテレビを見ながら「大変だねー、看護師さん。今日は検査はあるのかなぁ?」と素っ頓狂な言葉を口にした。
「検査は明日ですからね。今日はゆっくりしてて下さいね」
「あれぇ?そうなの?あ、そうだ、そこにミカンあるから食べて行きなさいな」
点滴を繋ぎ変えるだけだったのが、西田さんにつかまり、ミカンやらお菓子やらをすすめられる。
10分程その会話を繰り返しやっと12号室から出る。
ナースステーションに戻ろうとすると、瀬戸と堀越の小声の小競り合いが聞こえてきた。
「今更新したからお前合わせろな」
「何でですか?!インシデントじゃないですか、あれ!」
「は?だから何だってんだよ。西田さん脱水なんだからあんぐらい過剰したって問題ねーだろ。心臓も悪くねーし」
「業務的には過剰投与で取り上げるべきです」
「ちょーだりぃ。だからテメーはめんどくせぇんだよ。西田さんの病態一から勉強し直せ。これでも全然水足りてねーんだよ。過剰してる方がまだマシ。流量遅過ぎだし」
その会話を盗み聞きしていると、堀越がステーションの入口から出てきた。
「あの…今つなぎ変えて0時までに間に合うように調節したので…」
「あっそ」
堀越はメガネを右手の手のひらで直すと、その場から去って行った。
嫌な気分のまま瀬戸の元に向かい、点滴を繋ぎ変えたことを告げる。
「なんで過剰した」
「…あの。忙しくてちゃんと見れてなくて……すみません」
「何それ言い訳?忙しいのはみんな一緒だろ」
「…すみません」
「状態変化は?」
「特にありません…」
「何見て言ってんの?見た目?ちゃんと血圧とか測ったわけ?」
「あっ…今から測ってきます…」
陽向はそそくさと聴診器と血圧計を手に取り、再び12号室へと向かった。
また西田さんに「忙しいねぇ!」と言われる。
普段ならこんな可愛いおじいちゃんに癒されたいと思うところだが、今は窮地に立たされているのだ。
そんな余裕はない。
「血圧、問題ないですね。すみません、ありがとうございました」
「いーよ、いーよ」
「…じゃ、失礼します」
この言葉が最後であってほしいと願いながら部屋を後にする。
瀬戸に血圧や脈拍を報告し、異常がないことを伝える。
「すみません」
「俺に謝られても困るんだけど」
「…あ」
「貸しイチな」
「へ…」
「隠ぺいしてやってんだよ。感謝しろ」
「……」
瀬戸が陽向を見上げる。
陽向は言っている意味が分からず、目を逸らしてその場で硬直した。
「お前のインシデント揉み消してやってんだよ。レポート書くの面倒だろ…こんな過剰ごときで」
「でも堀越さんは…あの…業務的にって……」
陽向はそう言った後、やばい…と思い、自分の口を手で覆った。
マスクの上から。
「盗み聞き得意なわけ?」
瀬戸は笑うと、「早く仕事終わらせろ」と言ってパソコンに向き直った。
「すみません…」
陽向が立ち去ろうとすると、瀬戸に腕を掴まれた。
「…駐車場来い」
「え…」
「終わったら絶対来い」
「……」
「この貸し、返してもらわねーとな」
瀬戸はそう言うと、陽向を見てニッと笑った。