居候-1
(1)
村瀬圭一の脳裏には石渡信行の面影が貼りついていた。それはもう思い出の時間の中にあった。だが、ふとした時に過ぎ去った年月を思い起こすと、そこに蠢く自分の存在が鈍い痛みをともなって映し出されてくる。少しも色褪せてはいなかった。そして無表情の石渡が迫ってくるのである。
村瀬と石渡は騒々しい酒場で初めて出会った。二人とも学生で、それぞれ数人の仲間と一緒だった。陽気に酒を飲み、大声で喋りまくっていた。無闇に批判を並べたて、夢を語り、女を論じた。支離滅裂な放談であった。
それは隣り合わせたふた組のテーブルとも似たようなものだった。そして誰が切っ掛けを作ったのか、いつか二つのグループは乱れて一つになり、がなり立てるように歌を歌っていた。みんな顔を上げていられないほど酔っていて、名乗り合うこともせず水のように酒を飲んだ。
村瀬はそれから先、その夜のことをほとんど憶えていない。ただ誰かと肩を組んで人通りのない夜更けた往来を歩いたことだけがぼんやり思い出されるばかりだった。しかしそれとても夢だと言われれば、そうかもしれないと考えられるほど判然としない記憶だった。
翌朝、といっても昼を過ぎていたのだが、目を覚ますと見知らぬ男が布団の上に胡坐をかいて煙草を吸っていた。
(誰だろう……)
朦朧としながら考えたが、頭が重く、後頭部がずきずきと脈打ち、気だるさのままふたたび目をつぶった。
二度目に目を開けると男は布団を畳んでいるところだった。
村瀬は唸りながら体を起こした。男は振り向き、
「まだ寝てるか?」と訊いてきた。
「いや、起きる」
言ったものの、半日でも寝ていたいほど体が重かった。
「ここは?」村瀬は訊ねた。
「俺のアパート」
男は答えながら布団を押し入れに突っ込むと、流し場に行って歯を磨き始めた。
その部屋はガス台と流しの付いた四畳半で、小型の冷蔵庫とコンパクトな洋服タンス、それにサイドボードがあって、中には茶碗や皿などの食器類がきれいに納められてあった。
村瀬はむず痒い目をこすりながら、ここはどの辺りかと訊いた。
男の説明によると、そこは村瀬の下宿から電車で三つ目の駅にあたる所だった。
重い頭で昨夜の記憶を辿ってみた。
「運んでくれたのか?」
「俺も酔ってたけどな」
顔を洗った男はタオルで拭いながら村瀬のそばに座った。
「悪かったね、そりゃ」
「いやいや……」
男は煙草をくわえると村瀬にもすすめて火をつけた。胸が渇いているようで吸いこんだ煙が沁みた。
二人してしばらく黙って煙の行方を追っていた。気まずさは感じなかった。
「一緒に飲んだらしいな」
村瀬が口を切った。
「あそこで……」
「……らしいな」
「憶えてる?」
男は首を捻った。
「飲んだことだけは……」
「俺も」
男が笑い、村瀬もつられた。そしてそこで初めて名を名乗り、石渡信行の名を知ったのだった。
「しかし、こんなに記憶がなくなったのは初めてだな」
村瀬は何度も同じ事を言っては首をかしげた。
石渡は冷蔵庫から牛乳を取り出してきて、半分飲むようにすすめた。
「一本しかないんだ」
言われるまま飲むと石渡は残りを一気に飲み干した。
「俺を連れてきてくれたところをみると、君はしっかりしてたんだな」
「そうでもない。やっとだったよ」
改めて室内を見回してみると、動物のぬいぐるみや人形など、男の一人暮らしには不似合いなものが目についた。
「誰かと一緒なのか?」
石渡は村瀬の視線から意味を察したらしく、
「みんな貰い物だよ。捨てるわけにもいかなくて……」
石渡は放り投げるようにぞんざいに答えた。
(貰い物……)
当然女からのものであろう。
「彼女か?}
「いや、誰とも付き合っちゃいないよ」
訊くと、何人かの女からのプレゼントだという。
「困っちゃうよな。子供じゃあるまいし」
話しているうちに見知らぬ女の匂いが漂っているような気がして、村瀬は気付かれぬように大きく息を吸い込んだ。
それからしばらくの間、二人は互いの学校のことや出身地のことなどを話して部屋を出た。石渡は駅まで見送りに来て、よかったら時々遊びに来るようにと言った。村瀬は承知して同じ事を彼に返して別れた。