鎖に繋いだ錠前、それを外す鍵 2.-3
「私は……、ニセモノなんかじゃない……」
「ううん、あんたはニセモン」
智恵が跨ったまま、笑み顔を近づけてくる。「私がおらんと、また、ひとりぼっち」
「……」
「イヤなんやろ? ほやから、出て行かれへん。……ね? 謝って?」
智恵が再び唇を吸ってくる。指が髪を撫で首筋に降りて、爪を立てて服の上から脇腹から腰をなぞってくる。涙に浸りながらも友梨乃は鼻から息を漏らし、智恵の手使いに身を預けていった。身が捩れる。脚が自然と擦りあい、スカートの中が甘く熱くなっていく。
友梨乃は父親と母親と一緒に、もう一つ失わなければならない物があった。ピアノだ。訳がわからないうちに家の全ての財産は差し押さえられ、そしてすぐには父親の死亡認定は下りないから保険金も手に入るわけではない。親戚はよく知らない上に、母親の事件のせいで誰も助けてくれようと名乗り出る者はいなかった。莫大な金がかかる音大へ通うことはできなくなったし、となると、寮も出なければならない。否応なしに部屋の中に鎮座していたピアノは手放さねばならなかった。母親が見栄を全うするために用意したスタインウェイは当面生活には困らない金額に替わったが、その代わりに友梨乃は生きる理由を失った。
寮を引き払い、ピアノを始めとする家財をすべて処分すると、友梨乃はフラフラと夜の街をさ迷っていた。もうどうでもいい、と思った。どうやって渋谷まで来たのか憶えていない。宮益坂沿いの歩道に配置されている花壇の一つの縁石に座って、やたら大きいビルのガラスに映る無数のネオンと、その向こうの明るい夜空を眺めていた。
「あれー、キレーなオネーサン、何してんの?」
スジ盛りにした金髪に光沢あるジャケットの男が話しかけてきて足元にしゃがんだ。「元気だそーよぉ。遊びに連れてってあげよっか?」
虚ろな瞳で男を見ると、もうこの男に追いて行ってしまおうかと思った。男を相手にできない自分だが、そのせいでどんな惨禍に見舞われても、きっと大して苦悶は変わらないと思った。
「……どこ、行くん、……、ですか?」
「あっれぇ、オネーサンて日本人じゃないトカ?」男は笑いながら、「……まーいーけどね。楽しいとこ行こーよ。カード持ってる?」
「……」
友梨乃が頷く。
「オッケ。カードさえあったら遊べるトコいっぱい知ってるよぉ。まずはイケメンに囲まれて楽しいお酒飲もうよ、ね?」
指を鳴らして手を差し出す。男に触ることができるだろうか。友梨乃が男に手を差し出そうとすると、
「お待たせー!」
と、突然体をぶつけるようにして何者かが友梨乃の隣に座ってきた。それが初めて出会った智恵だった。
「……?」
顔を見ても誰一人思い当たらない友梨乃が不思議そうに何か喋りかけようとすると、智恵は頷きながら手のひらを見せて友梨乃を制した。
「オニーサン、客引きなん? それともスカウト? ごめーん、この子これから初出勤やねーん……」
智恵は身をかがめて口元に手を当てて、しゃがんでいる男に向かって囁いた。「コノ子ヤミ金で焦げ付いて、今日から裏風なんよ。コノ子から剥くと、ヤー公絡んでるから、えらいことになるし、やめといたほうがええよ」
「……」
男は険しい顔で舌打ちをした。
「ごめんね」智恵は身を起こして男に手を差し出すと、「名刺だけもろとくわ。この子はあかんけど、私は、今度行くから。……ね?」
小首を傾げるように笑いかけると、しばらく智恵を睨んでいた男は、ふっ、と息をついて笑顔に戻し、内ポケットから名刺を取り出して、
「了解。……じゃ、オネーサンの方は、また休みの時来てよ」
そう言うと立ち上がって渋谷駅のほうへ歩いていた。
友梨乃はその一部始終を、まるで当事者ではないかのように眺めていた。智恵の言っている言葉の意味が殆ど分からなかった。
「……そんな『余計なことすんな』みたいな顔せんといてよ。あんなにアホに追いてったら、どうなるかわからんの?」
「……別にそんなこと思ってません」
友梨乃が怪訝な顔をしたのは、面識のない自分をそんな危険な相手から救ってくれたのを不思議に思ったからだ。「どうして助けてくれたんですか?」
智恵は派手なミニワンピースから素脚を丸出しにして組んで、ミュールの踵をプラプラと揺らしながら、
「んー? なんか辛気くさーて、どんくさそーな女が引っ掛けられてるんが見てられんで……、っていうのはウソで」
智恵は友梨乃を向いて笑った。「お金ある? さっきのヤツみたいにひん剥こーとは思てへんで。お腹空いてんねん。そこの牛丼くらい奢ってもらおーと思て」
二人が座る花壇の正面に、中二階の牛丼チェーン店があった。身一つで彷徨っている友梨乃だったが、ピアノを売った金は牛丼とはケタが違う。生まれて初めて入る牛丼屋で、想像以上に安い並盛を二つ頼み、カウンターに並んで座った。今まで友梨乃の周囲にいなかったタイプの智恵は、やがて聞き出し始めた友梨乃の身の上話になっても、特別深刻になるわけでもなく、かといって茶化すわけでもなく、まるで友達同士が他愛もない近況話をするかのように聞き、話していた。友梨乃にとってはそれが妙に心地よく、そのつもりはなかったのに、渋谷を彷徨するに至った経緯を全て話した。