気持ちと身体-3
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『シンチョコ』を出た冬樹と勇輔は、街をぶらついた後、勇輔の自宅『酒商あけち』からさほど離れていない居酒屋『らっきょう』の暖簾をくぐった。店先に信楽焼の大きな狸の置物、引き戸の入り口の脇には赤い提灯がぶら下がっている。
「な、なんで居酒屋?」冬樹は入り口前で思わず足を止めた。「お酒、飲むの? 先輩」
勇輔は笑った。「飲まねえよ。心配すんな」
勇輔が先に戸を開けて中に入った途端、厨房から威勢のいい声がした。「いらっしゃい!」
「おっちゃん!」勇輔が手を上げて、中にいた髭面で禿頭の主に声を掛けた。
「よお! 勇輔!」
「邪魔するよ」
「友だち連れか?」
「うん。後輩」
主はにっと笑って言った。「ま、ゆっくりしていけや」
「ありがとう」
ウナギの寝床のような縦に細長い店の一階、一番奥の小上がりに二人は腰を落ち着けた。
出されたおしぼりで手と顔をごしごしと拭いた後、勇輔はにこにこ笑いながら言った。「ここな、俺ん家から酒、卸してんだ」
「そうなんだ」冬樹はまだ落ち着かないように腰をもぞもぞさせていた。
勇輔はお通しの蛸わさに箸をつけながら言った。
「こんな居酒屋ってな、食いたいもん、その場で決めて、すぐに持ってきてくれっから、気楽でいいんだ」
「そうなの」
「それにな、結構ヘルシーなんだぜ。野菜もいっぱい使ってるし。何飲む? 冬樹」
「え? あ、ああ。飲み物ね。どんなのがあるの?」
「おまえ、来たことねえのか? こんな店」
「あるわけないでしょ。まだ未成年なんだから」
「家族と一緒に来たりとか」
「両親はあんまりお酒飲まないし……」
「へえ」
勇輔は飲み物メニューを広げて冬樹の前に置いた。
「いろいろあるんだね……」冬樹はそれを眺めていた。「お酒ばっかり……」
「当たり前だ。飲み屋なんだから」
「先輩は何にするの?」
「俺か? 俺はノンアル・ビール」
冬樹は呆れたように眉尻を下げた。「そんなに好きなの?」
「うめえよ。それに、なんかもう大人になった気がするじゃねえか」
「そんな焦らなくても、そのうち自動的に大人になるでしょ」
「いいだろ、人の勝手だ」
「じゃあ僕、ウーロン茶でいいや」
「おし!」
勇輔は手を上げて若い店員に合図を送った。
「飲み物はノンアルとウーロン茶。焼き鳥の盛り合わせとオーガニックサラダ、とりあえず持ってきてくんねえか」
その店員は勇輔を見下ろしてため息をついた。「あのな、勇輔、いくらノンアルでも、未成年には飲ませるな、って上からお達しがきてるの、知ってるか?」
「そうなのか?」
「みだりにアルコールへの依存を早める、ってな」
「けっ! なんのためのノンアルだっつーの。俺、家でよく飲んでるぜ」
「おまえん家は酒屋だろ?」
「わかったよ、うっせーな。最初の一杯だけにすっから」
「ったく……。わかったのかわかってないのか……」
そのバイト店員は厨房に戻っていった。
「知り合い?」冬樹が訊いた。
「ああ、俺の中学時代のタメ。高校中退してここでバイトしてやがるんだ」
「そう」
「高校行ってた時より生き生きしてんな、あいつも。こんな仕事が合ってんじゃねえかな」
勇輔はまた小鉢に箸を伸ばした。
「先輩はよく来るの? ここ」冬樹も箸を割って、テーブルの小鉢の中のタコをつまみ上げた。
「お得意さんだぜ。ま、ここも酒屋の俺ん家のお得意さんだがな」
「そりゃそうだ」冬樹は笑ってタコを口に入れた。「か、辛っ!」
わははは、と笑って、勇輔は言った。「わさびは苦手か? 冬樹」
「こ、このタコ、わさびがまぶしてあるの?」
冬樹は頭を抱えて、しかめっ面をしていた。
「来たぜ、飲みモン」勇輔がおかしそうに言った。
テーブルに置かれたウーロン茶のグラスを慌てたように両手で抱えて、冬樹はごくごくとそれを飲んだ。
「おまえも飲んでみるか?」勇輔は、ジョッキに入ったノンアル・ビールを一口飲んだ後、にやにやしながら言った。
「う、うん」
冬樹はそれを手にとって、恐る恐る口に入れた。
「苦い」
わははは、とまた勇輔は笑った。「苦いか、やっぱ」
「でも、悪くないかも」
「おっ! おまえも気に入ったか?」
「でも、さすがにごくごくは飲めない」
「二十歳過ぎたら堂々とビール飲もうな」
勇輔はテーブルに身を乗り出して、嬉しそうに冬樹の肩を叩いた。
「あ、あのさ、冬樹」勇輔は、砂肝の串を手にとって、少し目を伏せながら小さな声で言った。
「え?」
「今夜、お、俺に、その……い、入れてくれないかな」
「えっ?」冬樹は真っ赤になった。「い、入れる?」
「も、もし、良かったら、の話だけどよ」
「い、入れるって……ぼ、僕のを? 先輩に?」
「そ、そう……」
「口……じゃなくて?」
勇輔はこくんと頷いた。「い、いやか?」
冬樹は少し考えて、おどおどしながら言った。
「僕、やったことないけど……」
勇輔は顔を上げてぎこちなく笑顔を作った。
「やってみてくれよ。俺、おまえともっとしっかり繋がりてえんだ」
冬樹は顔を赤くしたまま、同じように赤面している先輩の顔を見つめた。