重なり-2
◆
次の土曜日。
午前中の部活の間中、勇輔は何度も音楽室の方をうかがって耳をそばだててみたが、その日はついにピアノの音が聞こえてくることはなかった。
昼前になり、勇輔は家に帰る途中でシンチョコに立ち寄った。
「おお、勇輔やないか。部活帰りか?」ケネスが最初に反応した。
「こんにちは、おっちゃん」
「何や、元気ないで、どないしたんや?」
勇輔は顔を上げた。「先輩、いますか?」
「おるで。健太郎に用事か?」
「は、はい……」
「神妙な顔しくさって……。おまえらしゅうないな」
ケネスはそう言い残して、店の奥に消えた。
勇輔は喫茶スペースの一番隅のテーブルに向かって座った。右手でほおづえを付き、ぼんやりと窓の外を眺めてみた。駐車場を兼ねた前庭にはゆらゆらと陽炎が立っていた。
間もなく健太郎がやって来た。「よお、勇輔じゃないか。どうした」
勇輔は思わず背筋を伸ばした。「お久しぶりっす……」
健太郎は勇輔と向かい合って座った。
「相談事か?」
「はい……」
「どうしたんだ?」
勇輔は少しうつむいて、目だけを健太郎に向け、小さな声で言った。「俺、どうも、普通の男とは違うみたいで……」
「な、なんだそれ……」
しばらく勇輔は黙ったまま唇を噛んで、テーブルを見つめていた。
「コーヒーでも飲むか?」穏やかな口調で健太郎が言った。
勇輔は黙ったまま頷いた。
椅子を立ち、レジの横のデキャンタから二つのカップにコーヒーを注いで再びテーブルに戻った健太郎は、肩をすぼめて小さくなっている勇輔の前に一つのカップを置いた。
座り直した健太郎はもう一つのカップを手に、一口コーヒーをすすった。
「つまり、」唐突に、しかし抑揚のないくぐもった声で勇輔が口を開いた。「なんつーか……。俺、男子にも女子の時と同じように熱くなるっつーか……」
すぐに勇輔は慌てて顔を上げた。「だ、誰にも言わないでくださいよ! ケンタ先輩だけにカミングアウトしてるんすから」
健太郎はにっこり笑った。「言わないよ。だけどそんなの普通じゃないか」
「え?」
「要するにバイセクシャル、ってことだろ? 普通だよ。俺の父さんもそうだぜ」
「えっ? ほ、本当っすか? ケニーさんが?」
「そ」
「だ、だって、普通に奥さんもいて、先輩たち子供もいるじゃないっすか」
「だからバイなんだろ」
勇輔は顔を赤くしながら言った。「じゃ、じゃあ誰か男の人と、その、つまり、あ、愛し合ったりすることなんか……」
「父さんの場合は、男性との愛し合いはレクレーションみたいなものらしい」
「レクレーション?」
「そう。釣りとかゴルフとかと同じって言ってた」
勇輔は意外そうに言った。「そ、そんなもんなんすね……」
ふうとため息をついて勇輔はカップを持ち上げ、コーヒーを一口だけ飲んだ。
「で、おまえ、なにがきっかけでその自分の属性に気づいたんだ?」
健太郎はコーヒーカップを口に運んだ。
「俺、去年、部活ン時にケンタ先輩の水着姿に興奮してたんす」
ぶーっ! 健太郎は派手にコーヒーを噴いた。
「な、なんだって?! お、俺に?」
「そうっす。俺も、なんで先輩の裸見てどきどきすんのかな、って当時はめちゃめちゃ自己嫌悪でした」
健太郎は思わず立ち上がった。「ちょ、ちょっと待て。す、すると、おまえ、今日ここに来たのは……、ま、まさか俺に告白」
「い、いえ。そうじゃないんす。今は大丈夫っす」
健太郎はほっと胸をなで下ろし、椅子に座り直した。
「好きな男子でもいるのか?」
「よくわからないんす。俺。そいつのこと、どんどん気になってきてるんすけど、どうアプローチしたらいいのか、わからなくて……」
「難しいだろうな。普通とは言ってもゲイやバイ属性は少数派だし、まだ社会的に色眼鏡で見られるのは確かだからな」
「ですよね」勇輔は小さくため息をついた。
「勇輔は、その男子と抱き合いたいとかキスしたいとかって思ってるんだろ?」
「は、はい。恥ずかしいことっすけど……」
「いや、恥ずかしがることはないよ。普通だって。女子が好きになって、その子を抱きたい、って思うのといっしょだろ」
「そ、そうなんすけどね……」
「ただ、相手もそんな気にならなければ、おまえの身体の火照りを鎮めてくれるのは期待できないな。せいぜい友だち止まり……か」
「たぶん……それ以上は期待できないと思います。でも、俺そいつのそばにいたくて、何か、守ってやりたい、っつーか……」
「年下なのか?」
「一つ下っす」
「水泳部の後輩か?」
勇輔は首を横に振った。
「教えてもらっても、俺じゃどうすることもできないが……、良かったら教えてくれないか、それが誰なのか」
「え? い、いいんすかね……言っても」勇輔は健太郎の顔をまじまじと見た。
「なんだよ、なんで俺の顔を見る?」
「い、いや……」勇輔はうつむいて黙り込んだ。
健太郎は小さなため息をついて、コーヒーを一口すすった。
「冬樹……月影冬樹っす」
ぶーーっ! 健太郎はまた派手にコーヒーを噴いた。
言うまでもなく、冬樹は健太郎の恋人春菜の実の弟である。
「先輩がコーヒー噴くと思ってました……」勇輔はうつむいたまま言った。
テーブルにまき散らしたコーヒーをナプキンでせかせかと拭き取った後、一つ咳払いをして健太郎は立ち上がり、勇輔の横に立って手をそっと肩に乗せた。
「勇輔」
勇輔は健太郎を見上げ、切なげな瞳を少し潤ませていた。
「きっとうまくいくよ。冬樹くんの気持ちを訊いてみな」
勇輔を見下ろして健太郎はにっこりと笑った。
勇輔はきょとんとした顔で健太郎を見続けていた。