第五章-4
「月汐花魁には何と言って礼を申せばよいか分かりません」
数日後、竹村伊勢の主の部屋で、清右衛門は肥満体を屈めて畳にひたいを押しつけた。
「わっちは別に大したことはしておりいせんよ」
月汐は特別に取り寄せたという〈かすてら〉の大きなかたまりを頬張りながら澄ましてみせた。
「いや。花魁の様々な助言、助力があったればこそ、この最中の月の繁盛があります。ここは、別して厚い礼を尽くさねば手前の気が済みません」
「そんなら、このわっちを身請けしてくれいすか?」
「身代金を払って花魁を請け出せと申しますか」
「何やかやで……千両は掛かりいすえ」
「せ、千両!…………」清右衛門は絶句した。しかし、ややあって、絞り出すように言った。「……花魁がお望みとあれば、身請け、いたしま」
「冗談でありんすよ」月汐が高い笑いを発した。「今のお言葉だけで十分でござりいす。……わっちは、あと二年、いや、借財がありいすから、あと三年もすれば、年季が明けるでござりいす。それくらいの間なら苦界の水に浸かっていんすよ」
「しかし……」
すると、月汐がかしこまった。
「そのかわりと云っちゃあ何だんすが、ひとつお願いがありいす」
「はい……」
「鳥屋についてる(梅毒にかかっている)姉女郎の紫月姐さんを、出養生させてやりたいのでありんす。そのための費えを出してくれると嬉しゅうござりんすが……」
「それくらいなら訳もないことです。紫月さんとおっしゃいますか、その方の瘡毒の具合はどの程度で?」
「身体のあちこちに腫れ物が出来ておりんす」
「そうですか……。では、蘭方医を手配して治療もさせましょう」
「治療まで……。ありがたいことでござりいす」
月汐は伏し拝むように頭を下げた。
「花魁……」
「あい?」
「貴女は優しいお方ですなあ……」
「紫月姐さんは、わっちをここまでにしてくれた恩人。当たり前のことでありんす」
「いや。紫月さん以外にも、みんなに優しい……」
清右衛門は、「この私も、どれほど優しくされたことか……」という言葉を呑み込んだ。
「そうでありいすか? ……買いかぶりでござりいすよ」
月汐は残りの〈かすてら〉にかぶりついた。
それから一年後、治療の甲斐なく養生先で紫月は命の灯を消すこととなったが、その死に顔は安らかなものだったという。
最中の月の名付け親が紫月だと、月汐から後で聞いた清右衛門は、寺の住職と相談して、紫月の戒名を「慈恵院最中妙紫信女」と付けてもらった。
さらに二年後、月汐は危ない病に冒されることもなく、借財にもけりをつけ、めでたく年季明けを迎えた。遊女という境涯から解き放たれた。
「生国(出生地)に帰るのかい?」
と年季明けを来年に控えた翡翠が聞くと、月汐は薄く笑いながら答えた。
「二親が死んでしまった今、生まれ故郷に帰ったとて居るところがないよ。そもそも女郎あがりが、在所で、どうやって食っていけばいいんだい」
「菓子を作って売ればいいだろうに。……あんた、相当な腕前になっただろう?」
「何云ってんだい。玄人には程遠いよ」
「……じゃあ、廓に残って、九重さんのように番頭新造にでもなるかえ?」
「いいや。わっちゃあ堅気になるよ。といっても、吉原(ここ)を出るわけじゃあない。……あんたとは毎日会うことになるだろうよ」
「どういうことだい?」
「お向かいに行くのさ」
「お向かい?」
「竹村さ」
「竹村って……、あんた、まさか……」
「ふふ……、その、まさかさ。……清右衛門の旦那が、いつまでたっても男やもめでいるもんだから、わっちが女房になって竹村の店の奥に収まっちまおうって寸法さ」
「あんたたち、最中の月の一件以来、お互い何度も行き来してたけど、いつの間にそういう仲になっていたんだい?」
「さあね。わっちにも分かんないよ。……ま、とにかく、これからもよろしゅうお頼みもうしんす。……竹村の菓子の餡が余ったら、合図を寄越すから、もらいにおいでな」
月汐と翡翠は顔を見合わせていたが、どちらからともなく笑い始め、やがて抱き合い、そして、どういうわけか二人とも泣き始めた……。
「最中の月」という歯触りの軽くて甘い煎餅は、やがて、もっと柔らかく焼き上げられて皮種と呼ばれるようになり、砂糖をまぶす代わりに、皮種二枚の間へ餡を挟んだ菓子へと姿を変えていった。
その工夫を施したのが月汐と清右衛門の間に生まれた子供であるかどうか……。そこまでは、残念ながら記録がない。
夜。稼ぎ時の吉原遊郭の中は数多の提灯、大きな行灯で明々としていたが、色里の周囲を巡る鉄漿溝(おはぐろどぶ)は黒板塀に隔てられて闇の中。しかし、暗いだけに、水面に映った満月が、より一層美しかった。それは、さながら、銘菓「最中の月」を一枚、そっと浮かべたようだった。
(終わり)