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最中の月はいつ出やる
【歴史物 官能小説】

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第一章-1

 鉄漿溝(おはぐろどぶ)に映る空が、やけに青かった。
 吉原遊廓唯一の出入り口である大門、そこから延びる仲の町のつきあたりが水道尻。秋葉常灯明という大きな銅製の灯籠があり、その後ろに火の見櫓が建っていた。
 櫓のてっぺんより見おろすと、黒板塀で囲われた廓の外側を巡る鉄漿溝のほとんどが目に入った。遊女たちが使い捨てる鉄漿水によって濁った二間幅(約3.5メートル)の溝は、黒ずんでいるがゆえに、かえって早春の晴天を見事に映し出していた。その色が、花魁、月汐の心に強く沁みた。

「綺麗な青……」

呟いてしばらくすると、月汐はふと、菓子屋の青い暖簾を思い浮かべた。そして思った。

『ああ、そうだ。……死ぬのは、好物の菓子をたらふく食べてからにしよう』

最前まで自害を考えていた彼女だった。その脳裏に突如、甘味を求める衝動が奔ると、月汐の身体は自然に動いた。
 火の見櫓に掛かったはしごを降りる。登る時はそうでもなかったが、降りる時ははしごが妙に長く感じられた。折からの風で長襦袢の裾が翻る。恐さが急に頭をもたげ、はしごをつかむ手に力が籠もる。ようやくのことで地面に素足が着いた時、脇の下に汗がじんわりと滲んでいた。

「花魁……」

困ったような幼い声が出迎えた。見ると、月汐が従える禿(かむろ)の「ゆきみ」だった。

「花魁、こんなところに登りなんしたら叱られんすよ」

髪をおでこの上と頭頂部だけに残す芥子(けし)坊主に結ったゆきみが駒下駄を差し出した。櫓に登る前に月汐が脱ぎ捨てたものだった。華奢な手から受け取った駒下駄に足を通すと、糝粉(しんこ)細工のようなゆきみの耳に口を寄せた。

「遣手のお滝には黙ってな。あとで旨い菓子を買うてやるから」

「ほんでござりいすか。「はなみ」にはないしょで頼みんすよ」

はなみとは月汐が従える二人禿の片割れの名である。

 早足のゆきみを先導に月汐は大門目指して駒下駄を鳴らす。明日は弥生という吉原は、すでに仲の町に桜がずらりと植えられ、飄客はおろか観桜目当ての女子供らをも呼び込もうという算段だった。

 吉原は俗に五丁町と言われ、京町一、二丁目、角町、江戸町一、二丁目の区画で成り立っているが、他に、湯屋をはじめ様々な商いの店が集まる揚屋町、格下妓楼が並ぶ伏見町というのもある。
 月汐が今向かっているのは揚屋町の駄菓子屋などではなく、吉原遊廓で一番の菓子舗、竹村伊勢であった。大門に近い江戸町二丁目の角地に店を構える竹村伊勢は名物「巻煎餅」が売り物である。瓦煎餅を巻いた形の、その仄かに甘い菓子を『今生の名残に、思うさま』食べたいと欲した月汐であった。
 竹村伊勢の店頭は、丸に隅立四つ目の定紋がついた蒸籠が置かれ、桜の小枝を壷に飾って春の季節を演出していた。

「ごめんなんし。巻煎餅を二十ばかり……」

店先の畳敷きに月汐が腰をかけると、手代が足早に近づき裾を払って両膝をついた。

「おやおや、これは花魁、自らお出ましとはどうなさいました。いつもであれば振新の初音どんを寄こすはずで」

振新とは振袖新造のことで、月汐に従う十六歳くらいの若い遊女見習いのことである。

「この陽気じゃもの、わっちとて外出(そとで)をしてみとうなりいす」

月汐はしなやかな首をわずかに傾け、店の庇ごしに水浅黄の空を見上げた。その色香に手代はくらくらとなる。見世に出る前で化粧っ気がないにもかかわらず見惚れるような白い肌。整った目鼻立ち。さすがに遊女三千人の吉原遊郭で百人ほどしかいない花魁と呼ばれる存在であった。しかも月汐は、今の傾城番付の十傑に名を連ねるほどの上玉であった。

 お目当ての巻煎餅の包みを受け取った月汐は、中から一本ゆきみに渡すと、あとは袂(たもと)に隠し、急ぎ足で筋向かいの自分の見世、久喜万字屋(ひさきまんじや)へ入っていった。

 江戸町二丁目の惣籬(そうまがき)、久喜万字屋は、一丁目の玉屋には及ばぬまでも格式のある大見世であった。丸に卍の紋を染め抜いた暖簾を月汐が掻き分け、

「お帰りなさいやし」

若い者の声を聞いて駒下駄を脱ぎ、

「花魁、どこへ行っていたんだえ」

内証(楼主の部屋)にいた内儀から声をかけられ曖昧に笑みを返し、

「今日は髪結いの来るのが遅くなるそうでござりいす」

階段の途中で振袖新造の初音に囁かれた。

 登り切った取っつきが遣手のお滝の部屋である。長火鉢の向こうからお滝の視線を感じたが、月汐は唸る野良犬の前を横切る心地で足を速めた。

 自分の座敷の障子を開けると後ろ手に閉め、獅子噛(しがみ)火鉢の前へ座る。いつも身の回りの世話をやいてくれる番頭新造の九重の姿はない。おおかた仕舞湯にでも入っているのだろう。

 懐から巻煎餅の入った紙包みを取り出す。一本つまんで口に入れる。こめかみのあたりでボリッと大きな音がして、慌てて噛むのをやめ、辺りに耳をすます。
 誰かの飼い猫が遠くで細く鳴いているほかは気配がなかった。噛む力を加減して口の動きを再開する。二つ、三つと食べ進みながら、月汐は自分で茶を淹れた。これが菓子の食い納めかと思うと感慨が込み上げてきたが、何かしっくりこない。ぬるいお茶とともに四つ目を食べ、五本目を口にして、はたと思い至った。

「美味しくない」

これであった。


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