第五章-2
紫月が煎餅一枚をゆっくり食べ終えるまで、月汐は竹村伊勢の新しい品が出来るまでのことを語ったが、姉女郎は聞き終えるとポツリと言った。
「たいそう歯に優しく、甘い菓子だが、名前が良くないねえ」
「白煎餅ではだめでありんすか?」
「……もっと風流な名前のほうがいいね」
「風流……」
紫月は薄明かりの中、目を閉じて考えを巡らせているようだった。思えば、月汐は姉女郎から箏や鼓を習い、風流韻事(詩歌、書画、華道、茶道などの風流な遊び)、とりわけ和歌をよく学ばせられたものだった。
「月汐や」
「なんですえ?」
「今食べた煎餅、白くてまん丸でしたなあ」
「はい」
「まるで、お月さんのようでしたなあ」
「そうでありんすなあ」
「月の出てくる和歌(うた)、何か思い出すかえ?」
月汐は返答に詰まった。
「出てこないかえ。……しかたないわなあ。わっちが答えんしょう」
そう言うと、紫月の背筋が、しゃんと伸びた。病で縮こまっていた背中がまっすぐになった。
「池の面に照る月なみを数ふれば今宵ぞ秋のもなかなりける……」
久々に聞く紫月の凜とした声だった。
「さすがは古典詩歌に秀でる姐さん。雅(みやび)な和歌でありんすなあ」
「たしか、拾遺和歌集にあるもので、この和歌を元に『もなかの月』という言葉が公家衆の間で語られていたらしくて……」
「もなかの月……」
「そう。……いい言葉だろう?」
「もなかの月。……よござんすねえ。これを煎餅の名前に?」
「そうだよ。白煎餅に比べりゃ、めっぽう良い名だと思うがねえ」
「……気にいったでござりいす」月汐はツイッと立ち上がった。「さっそくお向かいに参じて伝えんしょう」
紫月の妹女郎は勢いよく襖を開け、ちょうど通りかかった誰かの飼い猫を驚かせたのにも気づかず、廊下を駆けていった。
「ほう……、もなかの月ですか」
竹村伊勢の主の部屋。月汐から聞いた名前を清右衛門は口の中で何度か繰り返していたが、ちょうど「白煎餅」と書きかけの細長い半紙をわきに寄せ、新しい紙に「最中の月」と墨痕鮮やかに書き上げた。
「ふむ……、良いですな。良き名でございます。新しい煎餅は『最中の月』で売り出しましょう」
かくして、竹村伊勢の店頭に「最中の月」が並べられた。
白くて丸くて砂糖がまぶされており、食感が軽くて食べやすい煎餅。この品が浅草のきのえ堂と吉原遊郭内の竹村伊勢の両方で商われた。どちらの店の煎餅もほとんど同じ形、同じ味。名前こそきのえ堂では「白軽煎餅」、竹村伊勢では「最中の月」と異なったが、目新しさもあり、双方の店で良く売れた。
が、やがて、これはどちらかが真似したに違いないという噂が人の口にのぼり、「きのえ堂のほうが十日ほど早え」という声で浅草の店の売上げが伸びた。
しかし、価格の面では、「きのえ堂は煎餅二枚で一文だが、竹村のほうは三枚で一文だぜ」ということで吉原の店の品も好評を博した。
そうこうしているうちに、瓦版でこの煎餅が取り上げられ、「きのえ堂こそ元祖。竹村伊勢は安いが二番煎じ」と煽られたからたまらない。おそらく、きのえ堂の差し金で刷られた瓦版だろうが、浅草の店は昇竜の勢いのまま、吉原の店はしくじった打ち上げ花火のよう。
見るに見かねた久喜万字屋の翡翠花魁がお向かいにねじ込んで、
「相手が元祖って言い張るのなら、こっちは本家で通そうじゃねえか。さあ、そうしなせえ。言ってやるんだ。本家本元、おおもとだってね!」
女だてらに勇み肌だったが、竹村伊勢の主は取り合わなかった。
「しょうがないねえ。ここいらで、もう一度わっちが一肌脱ぎんしょうか」
声を上げたのは月汐だった。火の消えたような竹村の店に行き、心労で少し肉の落ちた清右衛門に、敢えて静かな口調で掛け合った。
「竹村の主どの。きのえ堂が嘘で塗り固めた棍棒を振り回すのなら、こちらは真(まこと)の錫杖をついて歩むしか他なりますまい」
「真の錫杖?」
「金造がしでかした事、その成り行きを、世間様に語るのでありんす」
「今さら、さようなことをしたとて……」
「遅きに失したかもしれませぬが、愚直に心中を打ち明けるのが賢明だと思いいす」
「しかし……」
「巷には馬鹿やうつけも居りいすが、民を侮ってはなりいせん。真の言葉を発すれば、事情を酌み分けるお人もいるはずでござりいす」
「ふむ……、そうか。……そうかもしれませんな。それで、どのようにして真の言葉を?」
「それは、わっちに任せてくだしゃんせ」
月汐は清右衛門の了解を得ると、妓楼に戻って番頭新造に言いつけた。
「九重さん。絵師の貞元さんに文を書くんで、届けるよう差配しておくんなんし」
「あい。文使いが参りいしたら持たせてやりんしょう」
月汐からの文には、自分の絵姿を書かせてやるから、その前に一度登楼してくれと書かれてあった。かねてより月汐の絵を描きたいと切望していた貞元は次の日、夜見世の吉原大門を誰よりも早く潜った。