第四章-2
翌日。竹村伊勢の主の居間。清右衛門は招き入れた月汐を茶菓でもてなしながら約束の意見に耳を傾けていた。新しい趣向の煎餅についてである。
「巻煎餅は、わっちには硬めの歯触りが楽しゅうござんすが、年寄りや歯の弱い者には、ちと、つらい菓子でござりんす」
「なるほど……」
「もそっと食べいい煎餅があれば、歯弱の者たちも喜ぶと思いんす」
「もっと柔らかい煎餅があればいいとおっしゃるのですな?」
月汐は頷いて茶をひと口啜った。清右衛門は腕組みをして視線を斜め上にする。
「巻煎餅はうどん粉でこしらえますが、もっと水気を多くして焼いてみますかな? ……いや、それだと割れやすくなるばかりで柔らかくはならないか……」
「わっちも巻煎餅作りではうどん粉の水加減を間違い、ずいぶんと割れ煎餅をこしらえたものでござんす」
「ははは。今では竹村に引けを取らぬ煎餅を焼くというではございませんか」
「いえいえ。所詮、素人芸。売り物にはならず、内輪の者だけで食べておりいす」
「それでも大したものです」
「煎餅を柔らかくするには、なにか混ぜてみる、という手はないのでありんしょうか?」
「芋の粉でも混ぜてみましょうか……。いやいや、それだと風味は増しますが歯触りはさほど変わらない……」
清右衛門は腕を組み替え、首をひねった。月汐も視線を天井に向けていたが、やがて、ぽつりと言った。
「煎餅を作る粉は、うどん粉しかない。……それしかない?」
「……醤油煎餅は米の粉から作りますが」
「ああ、草加煎餅などでござりいすね。あれは硬い……」
「確かに硬いですが、米は米でも、糯米(もちごめ)からこしらえると、さっくりした煎餅が出来るかもしれませんな」
「糯米からというと……、白玉粉でござりんすねえ」
「そう、白玉粉。……これはいいかもしれません。……いい御意見を賜りました」
「思いのほか、あっけなく得心なさいましたなあ」
「いやいや、一人で考えていては橋をいくつ渡っても辿り着けぬところへ、他人の意見という舟に乗り、すんなりと行き着くことがありまする」
「そんなもんでござりんしょうか」
「白玉粉の煎餅、今度、ぜひ、こしらえてみましょう」
清右衛門の福々しい顔が笑みでさらに横に広がった。
「こんなわっちでも少しは役に立ったでありんすか?」
「ええ。十分に。……新しい趣向の煎餅が出来ましたら、お礼に参じますよ」
「礼などいりいせん。……昨夜はそちらの懸りで佐之助さまが登楼なさいましたが、今度こそ、清右衛門どのがわっちを揚げてくれればそれで……」
「いや、それは出来ぬことと、花魁も分かっているではありませぬか……」
困惑する清右衛門に笑みを湛えた一瞥を残して席を立つ月汐だった。
店を出る時に番頭の金造とすれ違い、『この女、また店に顔を出していやがる』という目付きで舌打ちをされたが、月汐は、
「おや、変わった声で鳴く雀もいるものでござりんすなあ」
と言ってみせて、軽やかな足取りで自分の見世へと帰っていった。
その夜、月汐は久しぶりに登楼した絵師の歌川貞元を相手に花魁としての勤めを果たしてから、夜更けに行灯部屋へと足を運んだ。手には小さな燭台を携えていた。
「紫月姐さん。見舞いに参じましたえ」
月汐の声で、紫月は身を起こした。蝋燭の淡い光に痩せ衰えた姿が浮かぶ。
「姐さん。今夜は山屋の金柑豆腐を持ってきいした。食べてくだしゃんせ」
「……おや、金柑豆腐かえ。ありがたいねえ」
紫月は小鉢にじかに口を付け、豆腐を啜り込む。
『かつては、久喜万字屋で売れっ子花魁であったこの姉女郎から、箸の上げ下ろしも含めて様々な所作を教わったものだが……』
と、月汐は思いながら、燭台を壁際に置いた。
「今宵は絵師の貞元さんが来てくれいした。姐さんのことを気に掛けていましたえ」
「……かつては、貞元さんの師匠の国貞さんに、わっちの絵姿を描いてもらったことがあったけど、あの頃は、よもや、このような姿になるとは思いもせなんだ……」
紫月は顔の腫れ物に手をやり溜息をついた。
「姐さん、一度は出養生(吉原の寮で病気の手当をすること)で良くなったと思いいしたが……」
「瘡毒はきれいさっぱり治るということがないからねえ」
「それでも、もう一度、出養生させてやりとうござりんす」
「以前は寮へ行く金を自分で工面出来たけど、今は到底無理だね……」
「金銭だったら、わっちが……」
「いけない。……月汐、いけないよ。これ以上おまえに迷惑は掛けられないよ」
「でも……」
その時、遠くで月汐を呼ぶ禿の声がした。それが少しずつ近づいてくる。
「あの声は、ゆきみかえ?」
「いいえ、はなみのほうでござりんしょう」
「行ってやりな。……山屋の豆腐、旨かったよ。この通りだ」
かつての姉女郎が手を合わせる姿を見て、何ともいえない気持ちが込み上げる月汐だった。