僕をソノ気にさせる-34
いつも杏奈が帰るときになると、優也はもどかしそうな目を向けてきた。ズボンの中が苦しいのだろう。知っていながら、優也に好きだと言われるのが堪らなく嬉しくて、優也が言わずにはいられないように囁きもキスも、体のくねりまでも仕向けてしまう。そしてその言葉が搾り出てくるほどに、杏奈もまた腰が蕩けるほどに体が熱くなった。きっと優也は夜、もどかしくなった場所を自ら慰めている。そんな想像を巡らせると、そんな鬱屈に追い込んでしまったことを申し訳なく思いながらも、その想像の相手は自分でなければ許せなかった。何故なら杏奈もまた、今までそんなことをしたことなかったのに、一人部屋に戻り、灯りを落としてスマホのライトだけ照らしながら、東京タワーを背にはにかむ優也を見て自分を慰めていたからだ。優也自身にすら言えない渇望を頭の中で言葉にして、触れてもらいたい場所を、鮮烈に憶えている指の感触を思い出して触り、そして果てていた。
(乙女じゃないよ……こんなヤツ)
――横浜に帰ってきた目的は買い物でも、実家でもなかった。
「おー、久しぶりー」
瑞穂はいかにも会社帰りという出で立ちで、待ち合わせ時間よりも少し早くにやってきた。
「ごめんねー。仕事、忙しいんじゃないの?」
「大丈夫。今は、そんなでもないんだ」
家が近所で、幼稚園、小学校とずっと一緒に過ごした幼なじみだった。私立中学に進んだ杏奈と学校は離れたが、クラスでイジメに会った時に泣き続ける杏奈にずっと寄り添い、ともに悲しみ、憤ってくれた親友だ。
瑞穂は地元の高校を卒業した後、横浜の小さな食品卸の会社で事務員をしていた。杏奈も大学に入って東京に暮らし始めると機会が減ったが、瑞穂が東京に出てきたり、杏奈が横浜へ帰省したときには必ず会っていた。
「んで? 今日は何しに帰ってきたの?」
「ん……、ちょっと。……散財しちゃった」
手に抱えた袋を見せた杏奈が曖昧に答えると、
「……ま、いいや。馬車道のほうにさ、けっこう良さげなイタリアンができてんの。予約してるから」
瑞穂は深くは問わずに杏奈を促した。
入った時はまだ客はまばらだったが、週末だけにどんどん混み始め、レストランはやがて満席になった。周囲の会話が飛び交う中、杏奈はいつもより早いペースでワインを開け、瑞穂の仕事の話や、自分の大学の今後についての報告をし合っていた。やがてデザートの段になると、瑞穂が少し改まり、
「てか、あんたが本格的に酔っ払う前にちょっと言っとかなきゃいけないことがあって」
ワインで目元がかなり染まっている杏奈を見た。
「ん? なに?」
「あたしさー、結婚するわ」
杏奈がデザートスプーンから慌てて口を離す。
「増本くんと?」
「他に誰がいるんだよ」
中学卒業後、理容学校に進み、免許を取得して市内の理髪店のカット店員になった同級生と瑞穂はずっと付き合っていた。
「えー、スゴいっ! おめでとっ……。……えっ、まさか、デキ婚……?」
「デキてねえし。……私は別にもっと先でもよかったんだけどね。あいつの開業資金が貯まってからでもさぁ。まあ、中学でグレかけてたあいつが、そんなケジメつけるなんて思っても見なかったけど」
「すごいね、増本くん……」
杏奈は美智子以上に身近な瑞穂の結婚に、自分もそういう年齢になっていることを改めて知らされた。学生であると結婚はまだ先の夢の未来であるように思えたが、既に数年社会人としてやっている瑞穂にとっては当然到達すべき現実だったのだ。
そう知らしめられると、ふと、優也と自分がそのように結ばれることはあるのだろうかという空想を試みそうになった。
「……おい、聞いてんの?」
「え?」
優也の夫像をなかなか組み上げられないでいる杏奈を、瑞穂がテーブルを指で鳴らして引き戻す。
「だから、式にも披露宴にもあんた呼ぶからさ。わかってるよね? 友人代表挨拶フラれるの」
「えーっ、ムリ……」
「断るなよ。あんた以外に誰がいるんだよ」
杏奈が瑞穂の苦笑に親愛を見て取りつつ、承諾すると、「よしっ、私の報告はこれで終わり。行くか。……飲むつもりなんだろ? まだ。ちょっと離れてるけど、いい感じのバー知ってるよ」
「えー、ナンパされるとウザいじゃん」
「される気マンマンかよ」
瑞穂は少し考えたあと、「じゃ、カラオケ? 高校生みたいな遊び方だけど」
「あ、いいね。『オリビア』唄いたい」
瑞穂は杏奈の言葉に、しばらく黙って見やっていたが、一息つくと、
「……やっぱ止そう。女二人でカラオケは悲しすぎる。じゃ、私ん家だ」
と言った。
「瑞穂の家?」
「そ。家飲みのほうがいいだろー。準ミスK大が横浜の街でハメ外してるとこ、知ってる人に見られたら学校いけなくなるでしょ? たとえ準、でもね」