発覚1-3
打ち合わせの連絡がメールで送られてきた。目の前にいるのだから口で伝えればいいじゃないか。どうせあと数分後に会議室で口を利くのだから。今まで他の部下の手を借りて何とか消化していたようだが、とうとう仕事が行き詰まったのだろう。そりゃそうだ、こんなに忙しいのだから。とはいえ、石橋の方から口を開くつもりはない。沼田は進藤さんを陥れようとしたのだから。やつは進藤さんとエッチしようとしていたのだ! でも相変わらず田倉は……。このことはもう考えたくない。
沼田はずいぶん前に自分のデスクからいなくなっていた。パソコンの時計を見て腕時計に視線を落とし、壁に掛かっている幾何学的なデザインの柱時計を仰いで立ちあがった。
首を巡らすと佐伯がこちらを向いて白い歯を見せていた。いつものように下あごをつきだしてやる。そのままの顔で前を向くと下村沙也加の笑顔に出くわした。石橋は上体をかくっと四十五度に倒してすれ違った。
彼女のスタイルはモデル以上だ。なぜならモデルはやせすぎているからだ。下村さんはスレンダーだが出るところは、とても、それははっきりと出ている。あの胸とお尻……。ああ、彼女はいつ見ても美しい。こんな女性の近くで仕事ができるなんて、なんて幸せだろう。
会議室のドアを開けると、いつ見ても美しくない男がおちょぼ口で座っていた。見たとたん気分が落ち込みげんなりした。一つ隣の席に座ったが、沼田が正面にずれてきた。
「お久しぶり。お元気でしたか?」
沼田は歯を見せて笑った。その歯はますます黄色みを帯びていた。ああ、気持ち悪いものを見てしまった。
「いつも忙しそうだなと思いまして。石橋さんは人一倍仕事ができるから」
お世辞とわかっているけれど……うれしさを顔に出さないようにしないと。沼田は書類をそろえながら、うつむいたまま「あのときは本当にすみませんでした」と、おでこをテーブルにこすりつけるくらい頭をさげた。突然の平伏にたじろぐ。
「いつお詫びしようかと、ずっと悩んでいました。もっと早くお会いできればと思っていたのですが、延び延びになってしまって、本当にすみませんでした」
バカでかい頭の禿げたてっぺんを見せたまま続ける。席は目の前なので毎日お会いしているのに、と思ったが口には出さなかった。
「魔が差したのです。わたしの心が荒んでいたのです。だからといってあの行動は許せるものではありません」
沼田は少しだけ顔を上げた。
「わたしはこの年齢までずっと一人もんです。ご存じかもしれませんが」チラッと石橋の顔を見る。そりゃ、誰だって知っている。
「とっても寂しい日々を、虚しい日々を送っているのです。たった一人で。この辺りにぽっかりと穴が空いて……」胸の辺りを押さえ、「すきま風がヒューヒューと吹きすさんでいるのです」と、空をひらひらと飛んでいるような手の動きをして見せた。
「この顔、この体型、この性格ですので、結婚など夢のまた夢。わが身が露と消える日をおびえながら生きています。いつ死んでもいいとさえ思っています。いっそ死ぬ前に……そんなふうに思ってしまったのかもしれません。未熟な自分を呪っています」沼田は鼻をすすっていた。本当に泣いているようだ。
「惰性のように、でも一生懸命仕事して夜になります。おうちに帰ると部屋は真っ暗。だーれもいませんいつだって。どんなに遅く帰っても、冷たい扉を開きます。虚無を感じて手探りで、横の電気のスイッチを、ぱちんと押すと――」
小さな目が石橋をチラッと仰ぎ見る。石橋はその目を見てうなずいた。後半は小唄のように聞こえたけれど気にならなかった。
「暗闇がパッと明るくなります。わたしはこの一瞬だけ心の中の固い蕾がふわっと開くような気がするのです。でもそれは一瞬です。たちまち固く閉じてしまいます、きゅーっと――」と言って目を閉じ鼻の穴を閉じ、口をすぼめる。その顔を見ていつもなら吹き出しそうになるが、今はない。「室内は灯されますが、心の明かりは灯りません。部屋の中は朝出て行った状態のまま。一ミリだって変化していません。……ああ、電気なんか付けなければよかった」また、ばたんとテーブルに伏せった。が、すぐに顔をあげ、石橋を見て泣きそうな顔でほほえんだ。石橋の生活と全てがシンクロしている。
「あのとき、心の蕾が開いたのです――」
心臓がどきっとした。
「僕の目の前に女神が現れたのです。美しく気高きビーナス」
少しうつむく沼田の目は澄み切っているように思えた。
「僕は女神のためなら死ねる!」
最後はそう締めくくって顔を上げた。泣いてる顔だが涙は出ていなかった。もう枯れているのだろうと思った。沼田の目は宙をさまよっていた。
「わかります、わかりますから」
石橋は感動していた。沼田は石橋の手を取った。鼻の奥がツンとなる。