下町の恋-2
3.
鈴世との連絡が途絶えたまま、数週間が過ぎた。
芳樹は、会社の会議中であった。
「おうちの人から急ぎの用ですって」と電話が入った。家から電話なんて滅多に無いので、驚いて受話器をとると鈴世であった。
「やあ、しばらく、どうしたの」
「一寸会社で顔に怪我をして表を歩けないから、会社の帰りに寄っていただけないかしら」
「で、怪我はどんな具合」
「傷は大したことないんだけれど、顔に包帯がしてあって、一寸このままでは表を歩くのが・・・」
「分かった、スウちゃんの会社の前に6時でいいかな」
「ええ。結構です、すみません、突然に」
鈴世は、顔の半分を包帯に包まれていた。
「こんなに大げさに包帯をされて、困ってしまうわ」
鈴世は言い訳をしながら、車に乗り込んできた。
棚の商品を整理をしていて、角に顔をぶつけたと言った。
「あのぅ、兄さんの友達から求婚されました」
鈴世がぽつんと言った。
「・・・・・・・・・・」
芳樹には、返事が出来なかった。
鈴世と結婚はしたい。が母親に駄目を出されている。芳樹は迷っていた。
気性の激しい母と、これもかなり気象の激しい鈴世が、母の反対を押し切って結婚して嫁姑になったら、どんなことになるか。長男の立場は厳しい。
一人息子の芳樹は、当然伝統のある家業を継ぐものと思われている。
家業を継ぐか、今のエンジニアの仕事を続けるか? エンジニアの仕事を続けるとすれば、家を出ることになる。それでもいづれは親が歳を取れば、長男の自分が全て背負い込まなければならない。
「・・・・・・・・」
芳樹が返事をためらっている間に、鈴世の家が近づいた。
「あたしは、ここで、・・・どうも有難うございました」
鈴世は、芳樹に頭を下げて車を降りた。
4.
スーパーの買い物から帰った妹の智恵子が
「スーパーで近所のおばさんたちが話していたんだけど、鈴世さんが結婚するんだって。それでお兄ちゃんにお祝い持って行こうかって言うのよ。
お兄ちゃんは未だ結婚しないわよって言ったら、皆びっくりしてた。みんなは、てっきり鈴世さんとお兄ちゃんが結婚すると思っていたみたい」
芳樹は、黙って自分の部屋に入った。布団を引きずりだして、頭から被った。
スウちゃんが嫁に行く。動悸が激しく呼吸が苦しい。涙が止め処もなく出てくる。芳樹は、翌朝まで部屋を出なかった。
クリスマスが近づいた。智恵子が芳樹をお花の先生のダンスパーティに誘った。
「男が少ないのよ、お兄ちゃん踊れるんだから来なきゃ駄目だよ」
あまり気乗りしなかったが、どうせ暇なので一緒に出かけた。
お花のお師匠さんは地元の人で、お弟子さんも妹の友達が多かった。芳樹の知っている顔も多くて、楽しい会となった。
「ご無沙汰しました」
聞き慣れた声に振り向くと、鈴世がいた。
「あっ、あのう、ご結婚おめでとうございます」
「有難うございます」
鈴世のお腹が、わずかに膨らんでいる。
「おめでたですか?」
「はい」
芳樹は、鈴世がいまや完全に手の届かない、他人のものになってしまったことに気付かされた。
「ヨッちゃん、踊って頂けますか」
「おなかは大丈夫?」
「ええ、今は安定期なので、少々ののことは大丈夫なの」
鈴世の背に腕を回し、静かにステップを踏む。
結婚まで待って、と言った鈴世、求婚されたと言った鈴世、ついこの前のことが、まるで遠い昔のように遠のいていく。
俺の決心しだいでは、スーちゃんは俺の女房になっていたんだ。なにを今更。
「帰り、送っていただけますか?」
「ああ、いいですよ」
智恵子に断って、芳樹は鈴世を車に乗せた。