誘惑者は内側に-2
日曜日、緑川は普通に目を覚ました。特になにも恐れていたことは起こらない。少し落ち着きを取り戻した緑川は、今から真面目に生きればいいと考えつつあった。その考えのまま、顔を洗ったあと少女の下着を嗅いだ。
九時半にはズザンナが教会に誘いに来るはずだった。それが、今日に限って来なかった。両親の出かけるらしい音と声とが聞こえたので、緑川は出て尋ねてみた。両親は、年頃ですからねと笑った。
Chu shi eble havas iun problemon?(もしかして何かあったんですか。)
緑川が母親にエスペラントで質問した。母のアンナは、エスペラントに堪能で、緑川も話せたから、日本語よりエスペラントが得意なアンナは、緑川とは好んでこの言葉を使っていた。引っ越してきたばかりの頃、ズザンナは、知らない言葉がいきなり母の口から流れ出たのに大層おどろいたものだ。
Ne, ne, tute ne! Shi estas nun simple en tia malfacila jaragho. Morgaw shi forgesos chion.(いいえ、全然。あの子は今ああいう難しい年頃なだけです。明日には全部わすれてしまいますよ。)
アンナはそう答え、両親は出かけていった。
しかし緑川は、教会に行かないズザンナが大変気になった。自分の都合を教会に優先させるような子ではない。あの「王女」にはわけがあるに違いないと思われた。三十男の緑川は、十代始めのズザンナをそれほど敬愛していたのである。生徒が尊敬する先生の家を初めて訪ねる時のように緑川は呼び鈴をかしこまって押した。
目を泣きはらしたズザンナがすぐに戸を開けて、入って下さいと言った。緑川は非常に緊張して上がった。
緑川をテーブルに着かせたズザンナは、お茶を入れて緑川に出し、自分もテーブルに着いた。緑川の瞳をまっすぐに見つめるズザンナの目から、雨の雫のように形のはっきりと丸い涙の粒が止まらなかった。それからズザンナは顔を伏せて泣いた。
緑川は人に感情を向けられることが大変苦手だった。営業職にあるのは人あたりが良いからで、自分としては物を相手にしたいくらいに思っていた。緑川が大人の女性とまともに付き合えない原因も、一つはここにあった。「感情の生き物」とは、人間でも女でもなく、本来動物である。知恵のついた人間の女が見せるむき出しの感情を、動物のそれと異なり、緑川は恐れ嫌った。
ズザンナは、美しい顔を涙と洟とで濡らしながら、きのう自分がしたことを、吐露という言葉のとおりに語った。寝る前のことまでつぶさに語った。そしてもう教会へ行く資格がないと言った。
聞きながら緑川は、強い興奮に内心おそわれた。様子を思い浮かべると甘い喜びすら感じてきた。そして、好奇心からその時のズザンナの気持ちをいちいち尋ねて、言葉を味わいたくなった。
だがズザンナの信頼が緑川を留めていた。こんな立派な人格が、自分を信じて恥を打ち明け、助けを求めてくれている。緑川は自分の「程度」をわきまえているつもりだった。困っている先生を力のない生徒が助けようとすれば、自分を顧みず最善を尽くすよりあるまい。うちに帰れば少女のものもあるのである。ごみのような自分はそこに埋もれていればいいのだ。今は自分の時間ではない。
緑川は親鸞の悪人正機の話をズザンナにした。悪いのは自分で、ズザンナは何も悪くないこと、むしろ思ってもらって嬉しかったこと、悪いと思っているときこそ祈るのが本当だということを緑川は併せて語った。
ズザンナはうつむいて耳を傾けていたが、やがて、落ち着いた喜びをたたえた瞳で緑川を見つめ、おじさんありがとうと言い、緑川の手を取った。
ロザリオを持って教会へ行ったズザンナを見送ったあと、緑川は部屋に帰って一心に読経した。