衝動-1
緑川巧人(みどりかわ たくと)は仕事を終えた電車での帰途にあって、すでに帰ってから飲むべき酒の種類と、今晩見るべきインターネットのサイトとについて、頭の中で物色していた。今日は少し早い帰宅だったから、読経をすぐして風呂に入ればゆっくり飲めるだろうと思った。緑川は毎朝神に祈り、毎晩読経する習慣だった。先祖や家族や同僚の社員、また知人の幸福を祈らなければ、何か相手に対し自分が悪く思われるとともに、そうしないことは不安でもあった。
緑川は嘘をつかぬよう努め、人の悪意に善意を返すことを日々の心得としていた。カバンには必ず何かの宗教書を入れていた。三十過ぎでまだ独身だった。郊外のアパートを借りて住んでいた。
電車内の吊り広告がふと目に留まった。雑誌の広告で、見出しの一つに、「小学生女児、全裸で保護」とあった。疲れていた緑川は感情を痛く刺激された。そしてそんな場面に出くわしたいものだと思った。雑誌の名前を確かめて、あとからコンビニで見てみようと思った。
座っている緑川の前に、塾帰りらしい女子高校生の一団が乗ってきて立った。初夏のことで、薄着に短いスカート、脚や二の腕の肌がまぶしかった。いろいろなにおいが鼻をかすめた。美しいが、重いと緑川は思った。
いくつかの駅が過ぎて、車内は空いてきた。停車中、今日も昨日と同じワインにしようと緑川は決めた。降りるまであと三駅であった。
電車がまさに出ようとするとき、女の子供が駆け込んできて緑川の隣に座った。汗を随分かいて、息が切れていた。長く走ってきたらしい。外国人だった。どこの出身かわからない混血の顔をしていた。小学校の五年生くらいだろう。緑川には、この思いがけない出来事が天の恩寵と感じられた。そしてワインのことをすぐに忘れた。子供はスカートのポケットからハンカチを取り出して、額や首、わきなどの汗を拭き始めた。息はまだ切れていた。前かがみになって頭を垂れたので、緑川はその背中から子供を観察することができた。シャツの背中に浮き出た背骨が亀の甲羅を思わせた。子供の体の軽やかさは、緑川の気持ちをも明るくさせ、仕事の疲れをも忘れさせた。
その子は、緑川の降りるひとつ前の駅で降りた。やはり走って出て行った。その時子供はハンカチを落としていったが、声をかける間もなかった。緑川は拾ってハンカチを自分の背広のポケットに入れた。それは湿って重いほどだった。
帰宅した緑川はすぐそのハンカチを出して嗅いでみた。濃い汗とわきがのにおいに脳天を射られる思いがした。ワインも読経もあとにして、緑川は高ぶる自分をまず慰めた。
翌日、緑川はそのハンカチを持って出社した。においが消えないように手をかけてラップに包んでおいた。営業の外回りのあいだ、トイレでそれを嗅ぐと元気が出た。しかし、所詮は「もの」に過ぎない。大切には思いつつも、自分の心のみすぼらしさと、男のつまらなさとを感じた。それは常々緑川につきまとっていた感覚だった。ブラジャーをしている男の会社員が世の中にいるそうだが、そういう人間を責めることはできないと緑川は思った。
昼間の都会は異常である。子供は学校に吸収されて、大人しかいない。老人や中年ばかりの昼の街を歩いていると、人類の滅亡する日が近いような幻想にさえとらわれた。
外回りに行けば、小学校がひとつはある。緑川はなるべく近くに行って足を留め、運がよければ体育や下校時の女子を眺めるのだった。インターネットで拾った女の子の画像が緑川の家には山ほどあった。それは、いくら集めても足りないが、集めないわけにいかない心の隙を埋めるおがくずだった。
退社した緑川は、今日もどこへも寄らず家で飲むことにした。あすは金曜だから、外で生ビールを飲もうと考えた。上司を誘ってもいいし、一人で行くのもいい。普段からひとりが好きな緑川だったが、酔えば感覚が変わるのだった。女子社員とは飲んでもつまらないと思った。それでも、外で飲んだあとに緑川は、大抵風俗店に寄らないことがなかった。
奇妙に思われない程度に緑川は電車内でも例のハンカチを出しては鼻に当てた。きのうより強くなったにおいを嗅ぐと他のことを忘れた。嗅ぎながら、きのうの小学生の顔や体つきやを思い出そうとした。ドアから女の子が入ってきて、出て行くところまでを回想した。しかし、追憶の始まりであるまさに降りる三つ前の駅になると、果たしてきのうの小学生が乗ってきた。そしてまた緑川の真横に座った。先方はもちろん緑川を全く気に留めていなかった。ハンカチを返そうかと緑川は一瞬思ったけれど、不自然である気がしてやめておいた。その子は天井を見つめたり床の一点を見たりして何か考えているようだった。もう降りるという頃になって、その子は緑川のほうの腕を上げてわきの下を掻いた。何気なく目をやると、その子の薄いわき毛が目に入った。そしてそのときその子と目が合った。緑川ははっと目を背けたが、その子はまだわきの下を見ていて、電車が停まると歩いて降りていった。