その2 ちちろのむしと別れけり-13
浅草寺を左に見て、山川町のあたりまで来てみると、お鈴の予想が当たった。吉原からの朝帰りの瑚琳坊 が、取り巻き連中の輪の中で千鳥足で歩いて来るのが見えた。冬の曇った空の下、五つ(午前八時)を知らせる鐘の音が浅草寺から響いて きた。お鈴が彼等に近づくと、太鼓持ちの男が愛想笑いを浮かべて身を乗り出した。
「お、これは女師匠様ではないですか。あいかわらずお綺麗ですなあ。白藤色の小袖がよくお似合いで……」
おべっかにかまわず、お鈴が泥酔状態の瑚琳坊に歩み寄ると、太鼓持ちは腰をかがめてお鈴と瑚琳坊の間に 割って入った。
「あ、二倫の旦那は昨晩、せっかく揚げた花魁の吉野に振り向きもせず、ご酒ばかりお召し上がりでございま した。どうやら高級な遊女にもそろそろ飽きがきて、花魁をも欺くという美貌のあなた様のことが懐かしくなられたようでございますよ」
見え見えの追従だった。それでも彼女は微笑みを返し、やんわりと太鼓持ちを押しのけると、酔眼の瑚琳坊に 寄り添った。
「ご一同様、ご苦労でございました。あとは私がこの人を連れて帰りますので、皆様はどうかここでお引き取 り下さいまし」
太鼓持ちに三両、取り巻きに一両ずつを手渡すと、彼等はほくほく顔で散っていった。
細い肩を瑚琳坊の脇の下に潜り込ませ、酒臭い息を嗅ぎながら、お鈴は酔漢を家まで連れ戻そうとした。
「おまえ様、大丈夫ですか? 歩けますね?」
このところの美食で、けっこう贅肉のついた瑚琳坊の身体はかなりの重さだったが、彼女は健気に彼の杖と なっていた。
(本当にお金とは恐ろしいもの……。ようやく真面目な生活になってきたかと思ったのに、小判の山がおまえ 様の心を台無しにしてしまった……。私がついていなければ、この先どんなことになるでしょう……)
お鈴が赤ら顔を下から覗き込んだ。すると、
「ん? 可愛いな、おまえ。どこの遊女(こ)だ?」
亀のような腫れぼったい目を薄く開けると瑚琳坊はお鈴をグイッと抱き寄せた。よろけそうになりながらも彼 女は何とか持ちこたえる。
「おまえ様、私でございます。しっかりなさいまし」
「ん? 私? ……ああ、お鈴か。おまえ、どうしてここにいる? ああ、金でも足りなくなったか……。そ れならここに、たんまりとある」
瑚琳坊は懐に片手を突っ込むと、裸の小判を数枚つかみ出した。それが手からバラバラとこぼれ落ちる。お鈴 は彼の体重を全身に背負いながら懸命にしゃがみこみ、小判を拾うと顔を真っ赤にして、ようやく立ち上がった。
「おまえ様、かなりお酒に酔っておいでのようです。さあ、早く帰りましょう」
お鈴が歩みだすと、瑚琳坊の目がまた、静かにくっついた。
大晦日も間近に迫った朝の冷気の中で、お鈴はひたいに汗を滲ませて、身体を預ける瑚琳坊を支えて歩いて いたが、運悪く、駕籠が一つも通りかからなかった。道行く人々は好奇の目を二人に注いで通り過ぎていったが、おおつもごりの準備で忙 しいせいか、誰も肩を貸してくれる人はいなかった。
そうしてお鈴が息を弾ませながら歩いて行くと、何やら向こうの自身番屋のあたりで人だかりがしていた。 ゆっくり近づいていくと、ざわめきの中から言葉が聞き取れるようになった。