修行始まる-1
第壱弐ノ章【修行始まる】
道場を飛び出し、1刻(2時間)以上もあても無く江戸の町をウロウロと放浪した瓶之真だったが、八つ半(午後3時)から始まる夕方の稽古の時間に合わせてコッソリと道場に近づいた。そして辻に面した窓から恐る恐る道場の中を覗いた。
すると、数人の門弟が稽古の前の床を拭き掃除をしているのが目に入り、瓶之真は安堵の表情を浮かべた。門弟が居る時は幾らお熊でも変な事はしない。変な噂が立つと道場経営の根幹に関わるし、如いては瓶之真の生活に影響を及ぼす事なので、昔から瓶之真とお熊の暗黙の了解事項だった。
「おや、先生、自分の道場を覗いてどうしたんです?」
近くに道場が有ると、そこは江戸町の八公、熊公、ちりめん問屋のご隠居達にとっては憩いの場所になる。何分娯楽の少ない時代の事なので、仕事の一区切り付いた者は道場の窓から稽古の様子を覗き、ああでもないこうでもないと講釈をたれる事は絶好の暇つぶしになる。
今も暇を持て余した越前屋のご隠居が、自分の道場を身を縮めながら覗き見る瓶之真に声を掛けた。
「い、いや、何でもござらぬ…」
挙動不審な瓶之真を見て大工の八公がニヤニヤした。
「先生もあの女子の尻をコッソリと見ようと思ったんでしょ」
八公が指差す方に顔を向けると、お満が高く突き上げた形の良い尻をプリプリさせながら、床を雑巾掛けしている姿が目に入った。
「お満うぅ」
瓶之真はお満の尻を見て瞬時に目尻を下げた。窓の格子を掴み、食い入るようにお満のその様子を目で追った。瓶之真の脳裏にさっき見たお満の淫靡な割れ目が浮かんだ。その無毛の割れ目が尻を突き上げた状態がどうなるかを想像して、瓶之真の肉棒が袴を持ち上げた。
しかし、そんな瓶之真の楽しい気分が瞬時に雲散する出来事が起こった。
雑巾掛けで道場の端まで辿りついたお満を、にこやかに微笑む半作務持次郎が待ち構えていた。
「お譲さん、替えの雑巾を硬く絞りましたよ。さあ、持次郎の雑巾をどうぞ受け取って下さい」
「あら、ありがとうございます。うわあ、すごいすごおい、お満にはこれほど硬く絞れないません。すごおおい」
「お満殿と仰るんですか?貴女に似合って美しい名だ」
持次郎がにこやかに笑い、白い歯の光りがキラリと爽やかに零れた。
「あら、お上手ですね。ええっと、あなたは…」
お満は頬をほんのりと赤く染めて聞くと、すかさず持次郎は答えた。
「半作務持次郎です、お満殿。持次郎とお呼び下さい」
「持次郎様…」
お満は持次郎の名を口にして、はにかんだ。
「こら、持次郎、自分だけずるいぞ!」
抜け駆けをした持次郎を見て、他の門弟達もお満の周りに殺到した。
この様子を窓から見ていた瓶之真は慌てた。
「こ、これはいかん!」
「あっ、先生…」
瓶之真は訝しむ市井の人々を尻目に、道場に向かって駈け出した。
瓶之真はお満を他の門弟達と一緒に稽古させるつもりは一切ない。それどころか、若い門弟達と若いお満が同じ空間で稽古すると、若しかして誰かと心を通わせる可能性がある。なので門弟達からできるだけ遠ざけ、紹介すらするつもりは無かった。しかし、お熊のせいでお満に普段の稽古には出ないようにという事を伝え忘れていた。