淫魔の夜-5
それ以外は特に変ったこともなく平穏な毎日が過ぎて行ったとも言えます。
異変は突然起こりました。真夜中に用を足しに廊下に出たとき、廊下の反対端の坊ちゃまの部屋からそれは聞こえて来たのです。
「やめて。嫌だよ。出て行って」
それは坊ちゃまの声でした。私は裸足のまま廊下の絨毯の上を走りました。私は足音を立てないようにそれでも全速力に近いほど急いで走りました。
ドアの前に来た時、坊ちゃまの泣き叫ぶような声がはっきり聞こえました。
「やめろ。出て行け。」
私はノックしてから小さな声で言いました。
「坊ちゃま、クララです。入っても良いですか」
「駄目、今入っちゃ」
お坊ちゃまはそう叫んだので、私はドアの前で立ち止まりました。
すると一瞬静かになって、なにかバサバサという空気を切るような音が聞こえました。
「クララかい? 入って来て。早く」
坊ちゃまの声がしたので私は部屋の中に飛び込みました。でも、部屋の中には誰もいなかったのです。窓も閉まったままですし、誰も出入りできない筈なのにです。
坊ちゃまはベッドの上で上体を起こして唇を震わせていました。頬には涙の跡があります。そしてはだけた胸に血の跡がついていたのです。
「坊ちゃま、それはどうしたのです」
私は薬箱を捜してから坊ちゃまの胸を調べました。血を拭き取ると胸に何か獣の爪で引っかかれたような傷跡が3本ついていました。
「あいつがこんなことをしたのは初めてだ。もう嫌だ、あんな奴」
「誰のことですか。あいつって何者です。どこに消えたんです」
私がそう言うと、坊ちゃまは激しく首を振りました。その目は恐怖で見開いていたのでございます。
「クララ、お前には見えないよ」
私は『えっ?』と思って、後ろを振り返った。すると見えない何かが空気を動かしました。バサバサと音がして細かいゴミのようなものが床に散らばったのです。それはいつも坊ちゃまのベッドを掃除する時に見る汚れでございました。細かい羽のような毛だったのでございます。
「まだ部屋の中にいるんだよ。僕の方を見て笑ってる。クララ、怖いよ」
私は部屋空間を睨んで言いました。
「出て行け、坊ちゃまに構うんじゃない。魔性のものめ。出て行くのよ」
そのとき坊ちゃまは、何か話しかけられたように短く返事のようなものをし始めました。
「えっ? 何? 本当。あっ……消えた」
それは私にもわかりました。何か部屋の中の空気を満たしていた邪悪な気配がふっと消えたのです。
「クララ、あいつのことを誰にも言っちゃ駄目だ。約束してくれる?」
お坊ちゃまは私の手を両手で握り、上目遣いで私の顔を覗き込みました。そのマリンブルーの目は涙で濡れていて、私は12歳のお坊ちゃんが背負い込んでいる心の荷の重さを考えると胸が詰まる思いでした。