世界で一番、許せないのは……-1
声を張り上げた吸血鬼青年が、その口を閉じるより早く、アーウェンは唸りをあげて彼に飛び掛った。
吸血鬼は森で不意打ちを喰らったり、複数を相手にすると厄介だが、本気で怒り狂った人狼の前には、貧弱な獲物でしかない。
虹彩のぎらつく人狼の目は、オリヴァルスタインの顔が驚愕に歪むのさえ、ゆっくりと見えた。
ラクシュを裏切り傷つけておきながら、のうのうと頼ってきた恥知らず。
そのくせ、まるで自分こそが彼女に愛されるべき存在だとほざいた。許せるものか!!
皮膚を食い破り肉を裂き、腸をえぐり出してやる!!
しかし……。
「だめ」
抑揚のない声が聞こえたかと思うと、吸血鬼青年の頭を噛み切る寸前だったアーウェンは、いつのまにか地面へ伏せるような姿で、ラクシュに押さえつけられていた。
弾みでラクシュのゴーグルが落ち、金属音をたてて、アーウェンの目の前に転がる。
「ラクシュさ……ん……?」
アーウェンは一瞬、何があったのかさえも、理解できなかった。
アップルグリーンの薄布を重ねたスカートが、地面にふわりと広がっている。ラクシュはちょこんと地面に膝をつき、やすやすとアーウェンの背を両手で押さえていた。
アーウェンなら指先で折れそうなほど華奢な手首なのに、まるで鋼鉄の枷にでも挟まれているように、まったく動けない。
「は、ハハ……助かったよ。キルラクルシュ」
オリヴァルスタインが冷や汗を拭き、アーウェンを眺め降ろしてニタつく。
「っ!? この……ラクシュさん! 離してください!!」
必死でアーウェンは怒鳴ったが、ラクシュは首を振る。
「だめ。アーウェン……強い……皆を、殺しちゃう」
「やりますよ! この恥知らずどもは、俺が殺します!!」
吸血鬼が襲ってきた時に、ラクシュに手を下させる気など、最初から毛頭もなかった。
自分を裏切った同族にまで、まだ情を持っている彼女には、絶対にやらせたくない。
悪逆非道どころか、本当は誰よりも優しい彼女を、もう二度と戦わせたくない。
でも、自分なら平気だ。
いくらでもこの手を血に染めてやる。
「俺は、俺は……そのためにっ!!」
―― 星祭りの願い札に書いた。
『いつでも、ラクシュさんの代わりに戦えますように』
引きつった声で抗議しながら、アーウェンは涙が零れそうだった。
ラクシュはどうして邪魔をするのか。彼らの言いなりにはならないと、たった今、宣言したばかりなのに!
「こいつらはラクシュさんを、また利用したいだけです!」
アーウェンが震え声で怒鳴ると、吸血鬼たちは顔を見合わせあい、クスクスと忍び笑いを交わした。
「なんて酷い言いがかりかしら。さすがは知能の欠片もない野蛮な人狼ね」
プラチナブロンドをかきあげながら、妙齢美女の吸血鬼が微笑んだ。
「新たな根城を手に入れるために、彼女が必要なのは事実だ。だが、僕たちはずっとキルラクルシュの身を案じていた。また一緒に暮らしたいと望んでいたよ」
黒髪の少年吸血鬼が、赤い唇をニンマリと歪めた。
「今更、何を言って……っ! だったら、ラクシュさんが出て行くときに、なぜ引き止めなかった!!」
首を精一杯あげて、アーウェンは彼らを睨んだ。
最も許せないのはそこだ。
吸血鬼の全員が、同じ意見を持つとまでは思っていない。何百人もの吸血鬼がいれば、中にはラクシュを嫌悪するものがいても、不思議ではない。
だが、彼らは誰一人として、ラクシュを引き止めなかったのだ。
二度と戻らないと宣言した彼女に、あっさりと金を渡して、そのまま立ち去らせた。
「どうして……彼女に出て行く理由も聞かず、今まで探しもしなかった!?」
アーウェンの脳裏に、もう十年も昔の光景が蘇る。
どんより濁った曇り空の街角。
まだ警戒でいっぱいの少年だった自分と、ボロボロの室内スリッパを履いたラクシュ。
『今日から……君がいる』
すすり泣くように聞こえた声が脳裏に蘇り、アーウェンの目から涙が溢れた。
彼女はせっかく買った『ゴハン』を前に、血飢えに苦しみながら、瀕死の限界まで血を吸おうとしなかった。
「お前たちが、誰か一人でも……ラクシュさんを引き止めてやれば、良かったんだ!!」
そう叫ばずにいられなかった。
吸血鬼の同族が、誰かたった一人で良いから、行かないでくれと彼女を引き止めれば、未来はきっと違っていた。彼女は黒い森に残り、アーウェンと会う事もなかっただろう。
……ラクシュが心にあんな傷を負わずに済むなら、それでも良かった。