好敵手-1
明くる火曜日。1月13日。
朝から亜紀は、起き抜けのパジャマ姿のまま、なかなか着替えようとしなかった。
歯みがきをしながら拓海は眉間に皺を寄せて言った。「いいかげん着替えたら? 会社に行く時間だろ?」
「うん……」亜紀はこたつに手足を突っ込んだまま、顎を天板に乗せてくぐもった声でそれだけ答えた。
うがいを済ませた拓海は、キッチンでコーヒーをドリップし始めた。
「タクちゃん」
不意に声がして、拓海は顔を亜紀に向けた。「なに?」
「部屋、掃除してくれてありがとね」
「気にすんな。何日も厄介になってっから」
拓海は、二つのカップを運んできて、こたつに置いた。
「調子悪そうだな、亜紀ンこ」
「わかる?」
亜紀はコーヒーを一口飲んだ後、右手でほおづえをついて拓海の顔を見た。
「タクちゃん、あたし会社に行きたくない」
「見てりゃわかるよ」
「そう?」
「原因は?」拓海は上目遣いで亜紀の様子を窺った。
「キモい上司に迫られた」
拓海は意表を突かれたように顔を上げた。「迫られた?」
「うん。新年会が終わって、狭い路地に連れ込まれて乱暴されそうになった」
「何だって? そ、そんなことがあったのか?」
「うん」
「で、あんた逃げたのか?」
「通りかかった警察官が助けてくれた」亜紀は急にうつむいた。
拓海は、亜紀のうなじにきらりと光る物を発見した。
「へえ、そりゃラッキーだったな」拓海はコーヒーカップを口に運んだ。
「……元彼の……遼だった」
拓海はカップをテーブルに戻した。
「あんたの元彼って、警察官なんだね。遼っていうのか」
「うん」
拓海は身を乗り出して、亜紀の顔を覗き込みながら低い声で言った。「あんた、彼に相当未練があるだろ」
「……」亜紀は黙ってうつむいていた。
拓海は静かに続けた。「昨日、シンチョコで何か見たのか?」
亜紀は顔を上げた。「え?」
「その彼が店にいたとか……」
亜紀はまたうつむいた。「彼女連れだった……」
「茶髪のポニーテールの子?」
「え? 見たの? タクちゃん」
「知ってんのか? その子のこと」
亜紀は首を横に振った。
「まだ彼女って決まったワケじゃないだろ」拓海はカップを持ち上げた。
「だって、すっごく仲良さそうだったもん」
「言っただろ? 電話しろ、って。証拠もないのにそんなこと決めつけてたら、自分をどんどん追い込むだけだ。ブラックホールみたいに、そのうち自分の抱えてる重さに耐えかねて外に這い出せなくなっちまうぞ」
「いいんだ……。もう三年も経ってるし。あの人に彼女がいたって不思議じゃない」
「諦められんのかよ」
「仕方ないじゃない……」亜紀の目にうっすらと涙が滲んだ。
「そのネックレス」拓海が唐突に言った。「ずっとつけてるのか?」
「えっ?」亜紀は思わず顔を上げて、自分の首筋に手を当てた。
「飾り気のないあんたの唯一のアクセサリーってとこか?」拓海は口角を上げた。「その警察官の彼にプレゼントされた?」
亜紀はほんのわずかに頷いて、またうつむいた。
拓海は遠慮なく大きなため息をついた。「あたし、しばらくここから帰れそうにないね」
「なんで?」
「壊れそうなあんたを一人置いとくわけにはいかないよ」
「……大丈夫だよ」亜紀は消え入りそうな声で言った後、寒そうに背を丸めた。