ワスレナグサの花言葉-9
自然と、踏み出そうとしていた足が止まる。
すると少しの沈黙の後、おばさんの声が聞こえてきた。
「彼のこと、忘れなきゃって何度も思ってた。忘れなきゃ前に進めないって」
「…………」
「だけど、やっぱり一度は本気で愛した男だもの、忘れることはできなかった。もちろん、今もね」
その言葉にゆっくり振り返れば、半分だけ照明が消えたお店の中で、薄暗く照らされた、おばさんの瞳がやけに潤んでキラキラ輝いていた。
目を細めて小さく笑うその表情があまりに優しくて、なんだか胸が苦しくなる。
そこには、花屋の明るいおばさんなんかじゃなく、一生懸命人を愛した、美しい女の人の姿があった。
そしてその美しい女性は、そっと目を伏せる。
寂しげに、ではなく、懐かしむように。
「……だけど、こんな私を、旦那は受け止めてくれた。彼を忘れられずに泣く私に、ずっと寄り添ってくれて、たくさんの愛をくれて。そしたら彼への想いはいつの間にか思い出に変わっていた」
「……思い出」
「そう。そして、その甘く苦い思い出はちょっぴりこんなおばさんの心を切なくさせる日もあるんだけど、何だかんだ言っても……」
薄暗いお店のさらには逆光だから、彼女の顔色なんてわからない。
だけど、自分の頬に手を添えた彼女の顔は、きっとバラ色に染まっている、そんな気がした。
そして。
「――私、とても幸せよ」
目を伏せていた彼女は、少し照れたようにわざと明るい声でそう言い、顔を上げた。
そうはっきり言い切った彼女のはにかむ顔があまりに綺麗で。
なぜか次の瞬間、涙が一滴、あたしの頬を流れていた。
おばさんがどうしてそんなことをあたしに言ったのかはわからない。わからないけど……。
涙で滲んだ瞼の裏には、仏頂面のおじさんと晩酌しながら微笑んでいるおばさんの姿が自然に浮かび、それがあたしの気持ちをなんだかとてもあったかくさせてくれた。