無謀1-4
「こんなこと、やっぱり無理です」
知っている人がいやしないかと気になってしかたがない。
「出張ということにして、もう娘を実家に預けました」
あまりの用意周到さに言葉を失う。
「ご近所が気になるのでしたら、先に行ってください。わたしはちょっと油を売ってから行きます」
田倉は手を振って手前の角を曲がっていった。
重い足取りで自宅へ向かう。自宅が見えると急に胸が苦しくなった。これからとんでもないことをしでかそうとしているのだ。すでに一線を越えてしまっているが、その先の壁までも越えようとしている。
娘の恵が幼い頃、夢と希望に胸を膨らませ購入した家。まだローンの残債をたっぷり抱えているが、幸せに満ちた我が家だ。
『黙っていれば分らない』
大罪をオブラートに包んだ言葉。
泥棒にでも入るような気分でドアに鍵を差し込んだ。田倉がきても返事をせずにいようと考えてみたが、ドアが開くまで玄関先で待ち続けるに違いない。そうなれば余計に近所の人に怪しまれることになる。こんな状況を生んだのも、性の快楽に狂った浅はかな行動の顛末であった。
タクシーの中で買った洗面用具と下着をバッグに仕舞うのを目撃している。初めから用意できたのに、奈津子にあえて見せるために購入したのだ。ここに何しに来るかは歴然だ。月曜日まで休むとは思えないが、田倉は本気でそれまで居続けるのだろうか。とすると二泊三日。そんなに長い時間、家に籠もって。心の中で絶望感と期待感とが均衡していることに気づいてめまいを感じた。
帰宅してからゆっくり片付けようと思っていたので朝の家事は手を抜いていた。大急ぎでボールに浸けてある食器を洗い、洗濯物を片付け、掃除機をかけた。二階へ上がり、ざっと恵の部屋を見回し、ため息を吐いてそのままドアを閉めた。隣の物置となっている六畳の部屋は、おおよそ片付いているのでよしとした。階下へ降り、夫婦の寝室のドアノブをつかんだ。立ち止まり深呼吸してからドアを開いた。シングルベッドが二つ並んでいる。昔はダブルベッドを使用していたが、傷みもあり古くなったので、恵が中学に上がる頃にシングルベッドに替えた。
夫のベッドを整え、自分のベッドを整えた。昨夜はこの上で愛し合った。触れるとまだ温もりがあるような気がした。でも今日は。両手で体を抱いて身震いした。今、考えたことではない。そのことはずっと頭にる。そのことしかない、といった方がいい。
片付けには時間がかかった。まだこない田倉がその時間も計算済みであることを息を弾ませながら気付いた。憎らしいほどの気遣い。着替える時間も惜しみ部屋の中をチェックした。