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(何だよ、こんなの慣れっこなのに……)
ずっと前から、何度も彼の顔なんて近くで見てきた。柔道の練習中だって。
―――何度か、突然キスされた時だって。
なのに、どぎまぎしてしまう自分自身に対して、彼女はよくわからない苛立ちと焦燥を感じた。
「俺のことを昔のままだと思ってる。だから、俺の前でいつもこんな無防備でいられるんだよ。男だと、意識してないから」
苦々しい顔で、吐き捨てるように言った。
今日の彼女の服装は、まだ暑いからとはいえ、キャミソールにホットパンツという相変わらず露出の高い格好。そんな姿でのこのこ男が一人の家に上がって、男がどんな劣情を抱くかなど、考えたこともないのだろう。
そんな彼の表情が、何故か椎奈の胸に鈍い痛みを与えた。
「っ、離せよ!」
彼女は何かを否定するかのように、思いっきり力を込めて、握られた彼の腕を振り解こうとするが、一向に振り払えない。それどころか、ますます強く力を込められて、全く外せない。
「……っ!」
悔しい。これでは彼の思いのままだ。至近距離で激しい視線がぶつかり合う。その勢いに圧され、先に白旗を上げたのは椎奈の方だった。目を伏せて彼から視線を外すと、
「あたしは、友達以上に思えない。孝太郎は、一番信頼できる幼馴染の、男友達だって」
絞り出すような声で、何とかそう告げると、一瞬、手首を掴んだ彼の力が弱まった。椎奈は、ほっと安堵の吐息を漏らす。
そんな彼女に反して、彼の中で、ぷつりと何かが切れた音が響いた。恐らく、それは理性だとか、普段の彼を縛っている糸のようなもの。
友達?信頼?そんなの、彼女の都合のいい言い訳だ。ただ、自分をみくびっているだけだ。椎奈のその言葉が切っ掛けで、彼は自身の胸の裡に、俄かにどす黒い感情が沸き起こるのを感じた。
(……そっか、どうあっても俺のことを男として認めてくれないわけだ)
もう、煮え切れない気持ちを抱きながら、彼女の傍に居続けるのは拷問に等しい。飽くなき渇望と打ち拉がれそうな絶望と、その中にある捨てきれない一縷の希望が全身を暴れ回って、頭がおかしくなりそうだ。
そんな精神状態だから、こんな卑劣な考えが思い浮かんだのだ。ここにいるのは今まで彼女に見せたことがない、卑怯な自分。きっと、今の表情は、自分でも驚くぐらい酷薄な顔をしているに違いない。
「わかった。じゃあ、せめてやらせてくれよ」
「っ!?お前何バカなこと……!!!」
孝太郎の突然の発言に、さすがに椎奈も度肝を抜かれた。
「もう、これ以上見込みないなら、お前のことは忘れる。だから最後の思い出ってやつ?いいだろ、別に。信頼できる男友達なんて、お前の口から聞かされるのはうんざりだ」
怒りか羞恥かで顔を赤らめて、きつく非難するような目をしている椎奈の顔を見ても、全く動揺していない自分自身に、孝太郎は違和感を覚えた。
何なんだ、これは本当に自分なのか?守りたいなんて偽善を装いながら、今は平気で、彼女を踏み躙ろうとしている。今まで彼女へ抱いていた淡い恋心、これは全て偽物だったのか。
(……だって、仕方がないじゃないか)
ぎりっ、と孝太郎は奥歯を噛みしめた。彼女に拒まれ続けて、自分自身も傷ついているのだ。無理矢理にでも強がってみるしか、未熟な自分の心を隠す術がない。
それに、本当は、忘れるなんて無理だ。自分以外の誰かが彼女を抱くなんて考えられない。嫌だ、考えただけで腸が煮え繰り返るような痛みと嫉妬を覚える。ぐらぐらと湧き立つような感情を裡に抱きながらも、上辺ではあくまでそれをひた隠しにして、
「……もしかして、怖い?椎奈はもう俺に敵わないもんな」
「は?」
椎奈の顔が、不機嫌に強張る。
思った通り、食いついてきた。自分の思惑通りに事が進み、彼は少しの罪悪感を覚えつつも、それに目を瞑った振りをしながら、
「セックスなんて……柔道の試合みたいなもんだよ。勝つか負けるか。俺との勝負、逃げるのか?」
狡い言い方をしたものだ。彼女をのせるには競争心を煽るのが、一番手っ取り早いから。嘲るように椎奈に目を遣ると、彼女の思ったよりも細い手首を捩り上げる。
彼女の瞳が怒りの色に染まる。めらめらと燃え立つ炎のような強い光を湛えている。闘争心剥き出しの彼女の顔も魅力的だと、こんな土壇場です思ってしまう。心底彼女に惚れているのだと改めて実感し、彼は自嘲するような薄笑いを浮かべた。
そんな孝太郎の様子に、椎奈は自分が侮られたものと勘違いしたのか、
「……な訳ないだろ、受けて立つよ」
最早、彼女は怒りの表情を全面に出しており、今にも彼に食って掛かりそうな勢いだ。
(それで、いい)
何でもいい、彼女の中に、自分の証を鮮烈に残したい。密かに、彼の表情が苦悩で歪む。
―――好きになってもらえないならば、いっそ憎まれたほうがいい。