その(3)-3
恵美子とはだいぶ前に付き合いがあった。
一時はかなり頻繁に会っていたのだが、いつの間にか疎遠になり、それは女の方から離れていったのだった。
無理に引き留める気も起らず、どちらにどんな傷跡を残したという場面もなく終わった。
何事に対しても執着心がなかったのは、当時、経済的に余裕がなかったこともあったが、それとともに、決断とか、精一杯やり遂げるといった、いわば白黒つけることへの迷いが付きまとっていたのも事実だった。
我が身可愛さというのでもない。何かに直面する度に、もう少し有利な別の道がありそうに思えてくる。
現在にしても、社会的、経済的な水準は雲泥の差になってはいたが、心の在り方に大きな相違はない。
(そんなにコロリと変わるものか)
居直るのはよくなかったが、たしかにそうなのだ。衣装だけ替えたって仕方がない。
(次元が低いだって?進歩がない?)
進歩ーー。そうだ、人間は進歩しなければならないのだ。そう言いながら、無性に正装した笑いがこみ上げてくる。誰彼の区別なく肩を叩き回りたくなってくる。
『君たち、進歩してくれ』
わかっているーーと彼らは言う。そのくせ彼らは酒をあおりつつ、薄っぺらだと論じ合う。論じ合うのではなく、薄っぺらを納得し合うのだ。何が薄っぺらだというのだろう。
すべてだ。何もかもだ。高言する。
(変えなければだめだ。重みをつけなければだめだ)
たとえば酒を飲むこと一つとってもそこに意義を持たせたがる人間がいる。いつでも空回りだ。ずれている。そして仕舞いには命すら投げうって生きざまを見せつけてやると叫ぶのだ。そんな『勇気』もないのに。
彼らーーが口に出して語ることは抽象的で不可解だった。具体化された目的は見当たらない。少なくとも今できることは公言しなかった。まるで分からないことこそ高尚であるかのように、現実性が流れ込んでくると話を逸らせた。今日明日の問題を持ち出すと軽薄視されたりする。
みんな自分の居場所をみつめたくはないのだ。わかっていながら、その目に悲哀があるのはなぜだろう。いやな目の色である。同情、賛同し難い色だった。
女々しいと思う。人間の弱さなどさらけ出したくはなかったし、そうされるのも嫌だった。同類を感じるということなのか。
ともかく、安穏の世界を味わう条件の一つは、目を凝らしても見通すことのできない未来に身を浸すことだった。
恵美子から電話がかかってきたのは三年ぶりのことだった。彼女の名が表示された携帯を見て、番号を変更しておけばよかったと思った。
「しばらくね……」
言ったあと、会話の合間を塗り潰すように彼女は笑ったが、それでも沈黙が残った。
「ひっこしたんでしょ?いまどこ?」
場所を言うと、
「すごい。あの辺タワーマンションばっかりよね」
「あたし、自分を見つめてみたんだけど……」
恵美子は口ごもりながら言う。
(みつめた?……」
「一度、会えないかしら……」
「どうして?」
「どうしてって……あなた、誘ってくれないんですもの……」
恵美子は遠まわしに、待ち続けていたことをぽつぽつと話した。だが、終りまで聞かなかった。静かに電話を切った。さようならと呟いた。微かに指が震えた。
どんなに考えても恵美子に用はなかった。会ってもどうにもならないのは分かり切っていた。彼女が財産目当ての目的で電話をかけてきたとは思いたくなかった。交際の途絶えた当時を思い起こせばある程度の屈辱は予想できただろうし、手を広げて迎えられるとはうぬぼれてもいなかっただろう。おそらく恋人と諍いをしたか、別れたかして気弱になっていたのにちがいない。
だからといって彼女の話を聞く気にはなれなかった。恵美子は言い訳をしようとした。だから切ったのだった。聞くに堪えない思いだった。ふと、自分を安売りするなと言ってやりたくなったが、やめた。皮肉な言葉だと思った。しかし、話の最中に電話を切ったのは、それ以上の、まるで平手打ちを食わせたのと同じ結果になった。
(恵美子……)
その瞬間、背筋に戦慄を感じた。意識の底に、ある思いがあった。
(報復する感情……)
あったにちがいない。電話が恵美子だとわかった時、きっと閃いていたのだ。
仕返しされたことだけを彼女は受け止めただろうか。確かなことだぞと耳打ちしてやりたかった。筋違いだが、恨んでもかまわない。どうにもならないことは、恨むか、愚痴の中に逃げ込むか、そうして関係のないことをして暮らすことだ。
恵美子を思い出したのは不快だった。過去の厭な出来事が体の内部を不規則に形を変えて通り抜け、ふたたびふつふつと湧き出てくるような想いに捉われた。