その(2)-1
「ぐっとあけろよ」と北山がボトルを傾けてきた。
「かなり効いてるよ」
そこは高級な酒場だった。客層も身なりのいい中年の紳士か、会社の接待らしいグループ、そして芸能関係者がほとんどだった。
酔った客がマイクを片手に歌っていた。
「来月から出てくれるだろう?」
北山は探るような目を向けた。
彼はテレビ局の企画の仕事をしている。高校時代の友人である。
「マンネリ化してるからな。内容を一新しなきゃならないんだ」
新人発掘を目的とした番組に審査員としてレギュラー出演してほしいという話は少し前からあった。柄ではないと断っていたのだが、友人の関係を利用して乗り出してきたのである。
「作家だって顔を売らなくちゃだめさ。いいチャンスだぜ」
たしかにそうだろう。儲けられる時に儲けておく。彼がいつか言っていたことがあったが、それもその通りかもしれない。
設けるーー金か。
「金さ。何でもな。俺はお前が羨ましいよ。いくらでも稼げるんだからな。金を貯めないと。特にお前の立場はな。悪いが人気はいつか落ちる。波はいろいろあるだろうが、逃げ場がいるんだ。切り札がな。それが金さ。たよりになるのは」
「わかっている」
「わかってたら出てくれよ」
「そのつもりではいる」
「そうか。それがいい。俺も助かるよ」
北山はほっとした笑顔を見せた。
「俺もこの話がまとまると株が上がるんでな」
正直なところ、どちらでもよかった。北山が言うように金を稼いでいざという時に備えることも必要だとは思いながら、どこかで意味がなくなっている気もする。
いざという時とはーー食えなくなった時か。
その日がいつやってくるのかは見当もつかない。そんな日は来ないかもしれない。このまま何とかうまくやっていけそうにも思える。だがわからない。どんな結果が待ち受けているものやら、先のことは予想し得ない。だから、いざという時ではあるのだが……。
「しかし、それだからといって金に執着するのも味気ない話だ」
「相変わらず青春一直線が抜けないな。昔から同じだ」
「青臭いか」
「そういうわけじゃないが、考えなくてもいいことに拘っているのは変わらないよ」
「何かのために備えるのはわかるが、それが金のみとなると何だか虚しい気がする」
「しかしな。点を取らない限り試合には勝てないんだぜ。絶対に」
「そうだ。絶対にだ」
野球部だった彼はよく例えに試合を持ち出す。
「それがわかっているならもっと気楽にいこうぜ」
「別に深刻ぶっているわけじゃない」
突然何かがぶつかったような鈍い音がした。見ると若い女が扉のそばに倒れていた。
「早く、出て、出ていけって」
従業員の一人が押し殺した声で言いながら小刻みに足で女を押していた。女は鼻で泣き出した。
「何するんだよぉ、わかったよぉ」
厚い化粧をして髪はぼさぼさに乱れている。
それを見ていた北山は眉間に皺を作って顔をしかめた。
「なんだ?あの女」
訊ねると、北山は酒を一口飲んで、
「病気持ちらしい」
「病気?」
「エイズって噂だ。この辺じゃ有名でな。少し頭がおかしいんだ」
北山は女から目を逸らせた。
「ホームレス同様だよ」
「ホームレス……」
「いや、意外と金はあるらしい。知ってるやつは近寄りもしないが、けっこう田舎もんがいるからな。見てくれはそこそこだから一晩寝ればいい金になる」
「ひどいものだな」
「ああ、野放しにしておくのは危ないんだが」
「何とかならないのか?」
「誰も関わりたくないしな。……野良犬だな」
「野良犬か……」
「どこか他へ行こうともしない」
「ここが好きなんだな」
「華やかだからな」
自嘲気味の言い方だった。
女は外に追い出され、店には元通りの雰囲気が戻った。
芸能界ーー。その華やかさの裏に廃棄された不条理を嘆いても無駄なことだった。誰も真剣に同意しようとはしない。いまさら何をーー。そう言ってせせら笑われるのが関の山だった。口にしてもどうにもならない。それはわかっていた。まして自らその世界で生活しているとなればなおのことである。
しかし、何も考えずに平然と構えているのは、やはりいけない気がする。自制も何もなく、人を食い物にして流され、横たわっているのは後ろめたかった。少なくともそういった意識だけは持ち続けるべきだと思われた。
特殊な業界なのだという台詞は口実にすぎない。どうにでもなる言い訳だった。乱れた因習を盾にして面倒なことはごまかしている。
厳しい故に仕事以外のことがなおざりになるのではなく、だらしのない人間が多すぎるだけなのだ。
金とセックスと歪んだプライド。この世界はそれに尽きるといっても過言ではない。たしかに美がある。芸がある。芸術性もひそむこともある。しかしそれらは細々と……。
「お前、マネージャーを使ったほうが楽だぞ」
話題がなくなり、北山は気乗りのしない言い方で言った。彼はこれまで何度も口にしていた。
「俺はいらないよ」
マネージャーを雇わなければ捌けないほどの依頼を受けるつもりはなかった。自分の資質にも将来的な自信は持てなかった。
「いつまでも続けるつもりはないんだ」
「いまの仕事をか?」
「ああ」
「むかつくな」
「むかつく?」
「怒るなよ。恵まれすぎているんだ、お前は。何年経ってもウダツの上がらない連中はいくらでもいる。そういう連中がその言葉を聞いたらどう思う。高慢だよ。これから何年か寝ていたって食っていける身分なんだから」
そう、金がある。まだまだ入ってくる。名も出来た。だがそれからどうしようと考えると不安になる。
北山は煙草をふかしながら、
「とにかく、そういう話はまたの機会にしよう」
椅子から立ち、伝票を取った。
「三日以内に連絡させる。頼むな」
表へ出ると振り返りもせずにタクシーに乗り込んだ。