白い波青い海-1
(1)
朝はまだ完全に明け切っていなかったが、海は満面の笑みを湛えて豊かだった。大いなる広がりが迫り、私を引き寄せていた。
波間がきらめく。ガラスの破片を敷き詰めたような輝きが慌ただしい変化をもって目の中に眩しく飛び込んでくる。
朝凪に穏やかな佇まいを感じさせる海は、静かなるがゆえに、却って自然の力の偉大さを誇示しているようでもある。
刻々と移り変わってゆく色彩を認めながらも、なぜか時が止まったかのような画像的感覚に包まれていた。
陽が昇るーー。
水彩に滲んだような薄いオレンジ色が白桃色を織り交ぜながら基調の鈍色を駆逐していく。
夜明けの変化に音はない。……が、天は染まってゆく。明るさが増し、陽光は一気に拡がった。
遠い、ざわめきのような潮騒と相俟って、その光は神秘な生命の息吹をさえ連想させて私を捉えていった。
海を、夜明けを、そして清澄な朝の空気をこれまで正面に受け止めたことがあっただろうか。
どこからか荘厳な序曲が鳴り響いてくるような名状し難い感動が素直に胸に迫ってくる。
私はまだ夜気の湿りを含んだ砂浜に腰をおろし、言い知れぬ新鮮さに酔っていた。
起伏の緩やかな台地が浜を囲むように海岸近くまで延びている。台地は松林を背負って、三方から浜を包むような形状である。
左右の海岸線を辿っていくと、さつま芋を横たえたような地形が海に向って突き出している。そうしてみると、ここはたしかに入江の形にはなっているが、ほぼ大洋に面しているので海の様相の一喜一憂は外海のそれとほとんど変わりはなかった。静かな時は浜も穏やか、荒れた日は大波が打ち寄せる。
私は仄暗いうちに旅館を抜け出して、つんと鼻腔をつく潮の香りの中でじっと夜明けを待っていた。『夜明け』に何らかのこだわりがあったわけではない。
このところ、重苦しい疲労感を絶えず感じていた。十分に眠ったつもりでも、目覚めてみるとどこかにシコリのようなものが残っていた。微熱を帯びたような気だるさがあった。それでも早く目覚めてしまうのだった。
和子の‘存在‘が一因なのはわかっていた。それと‘自分自身‘と……。
深く安らかな眠りは自ら遠ざけているのかもしれなかった。
今朝はことさら目が冴えて、横になっていること自体が苦痛であった。
陽が顔を覗かせ、明けてしまうとあっけなかった。
日差しはすでに夏の強さを含んでいた。白く眩しい明るさが瞬く間に拡がっていく。いまなら石段を登って高台に出れば神子元島という小さな島がくっきりと青みを帯びて見られるはずだ。その景観を思い浮かべながら、私は仰向けに寝ころんだ。目映い青空と大地の間で浮遊しているような心地であった。
私は何も考えずに煙草を喫った。考えなかったというより、気持ちを収拾する糸口が見い出せず、心のがらくたをぶちまけて眺めているような心境だった。
どれくらいそうしていただろう。黄色い声が流れてきて、見ると浜の中ほど寄りに、いつのまに集まったのか、ランドセルを背負った子供らが誰かを取り囲んで笑っている。
(もうそんな時間か……)
そろそろ朝食である。
起き上がり、旅館の下駄をはいた。
近づいてみると子供たちの輪の中には一人の老人が座っていた。
「おい、オジイ、オジイの名前を教えてくれよ」
目のつり上がった少年が顎を突き出して言った。老人は前を向いたまま、唾液の溜まった口をわずかに歪めた。
「……わっしゃあ、のう……」
とたんに子供らの笑いが破裂した。どうやら老人の話し方が可笑しいらしい。
私は何気なく足をとめて老人の様子を窺った。子供たちは私に視線を向けたものの、すぐに老人をからかい始めた。
「オジイはどこで生まれた?」
「……わっしゃあ、のう……」
何と言ったのか子供の笑い声にかき消されて聞き取れない。
言葉が不自由なのだ。子供は残酷である。老人は身動きもせずじっとしている。
顔の皺や頭髪の具合からみるとさほど高齢とは思えないが、生気が感じられなかった。
そのうち子供のいたずらは老人の身体にまで及んできた。リーダー格らしい少年が老人の鼻をつまんだのである。ひやりとするほど大胆な行為である。
「学校に遅れるぞ」
私が促すと、子供らはいっせいに振り向いたものの、何のためらいもみせない。
少年は落ち着いた様子で老人に顔を寄せた。
「オジイの名前はなんだっけ?」
老人はかすかな痙攣をともなった口調で答えた。
「わっしゃあ、のう……」
それは鼻をつままれたことで、より滑稽さを増して聞こえた。思わず失笑してしまった私を少年が見上げて、
(どうだい)と言いたげに口元に笑いを浮かべた。周りの子は馬鹿笑いである。
その時、鋭い声が飛んできた。
「ほら!何してるのよ!」
石段の上である。
「にげろ!」
瞬間、子供らは声の方向に身構え、なにやらはやし立てながら砂浜を駆け抜けていった。
石段を下りてきたのは若い女であった。ブルージーンズに同系色のTシャツを着て、豊かな髪を束ねずに自然に流している。遠目にも目を惹く姿態である。
私は妙な戸惑いを感じながらその場に立ち尽くしていた。
「じいちゃん、何ともない?」
女は息を弾ませて言うと、私に一瞥を投げた。かすかに敵意を含んでいるように感じられた。私は誤解の視線にうろたえながら動けずにいた。
「だめじゃないの。黙って出ていっちゃ」
溜息まじりに言い、もう一度私に目を向けると、石に腰を下ろしている老人を立ちあがらせようとした。だが思うように立てない。半身が不随なのだった。
老人は杖に力を込め、もどかしい動作で女の肩に身を預けた。
(何か言葉を……)
掛けるべきか迷いながらきっかけがなかった。子供の中にいた唯一の大人なのだ。同罪と思われては困る。だが逡巡のうちに二人は歩き出してしまった。