白い波青い海-3
(2)
「散歩がお好きですねえ。お若いのに」
部屋で寝そべっていると主人が食事を運んできた。この旅館には仲居など手伝いの女はいない。主人と奥さんで切り盛りしている。ときおり高校生の二人の娘が膳の上げ下げなどを手伝ってはいたが、人を雇うほど泊り客は多くはない。設備はよくないが料金は安い。おそらく商人宿なのだろう。
「何か面白いものでもありましたか?」
主人は私が箸をつけ始めても立ち去らずに話しかけてくる。
「いえ、特には何も」
「そうでしょう。ここは海以外に何もない所ですからね。若い方にはつまらないでしょう」
「そうでもないですよ。それに、遊ぶ所がない方がかえっていいんです」
「ほう……それは……」
主人がどうしてだと問いたげな愛想笑いを向けてきた。
「実は……」
私は言葉を切ってお茶を一口飲んだ。もったいぶったわけではない。切っ掛けがあったら言おうと思っていたことがあまりにわざとらしくてためらったのである。
主人は真顔になって待っている。
「詩を書いていましてね。趣味ですよ」
言ってから恥ずかしくて飯をかき込んだ。とりあえず一週間も旅館でくすぶっている理由にはいいだろうと曖昧な笑顔を作った。
(酔狂にすぎるか……)
だが誰にも利害のないことだ。
主人は、これで『謎』が解けたという顔で何度か頷き、
「そうですか。詩って、あの。そうですか。いえね、何かお勉強をしてらっしゃるとは思っていたんですけどね。なるほどね」
主人は間もなくそそくさと出ていった。階下にいる家族に事の真相を話しにいったのだろう。もしかしたら自殺志願者に思われて警戒されていたのだろうか。自嘲めいた想いに捉われた。
食事を済ませると、テレビもない、ただ形式ばかりに床の間を設えた殺風景な部屋でむやみに煙草を喫った。
目を閉じると由紀子の物憂い顔が、写し絵のように生気なく浮かんでくる。心にさざ波がたったように落ち着かなくなる。
彼女の、あの‘呟き‘が、静かに音もなく私を否定した結果になったことをおそらく彼女自身気づいてはいないにちがいない。私が傷ついた度合い以前に、そのショックを与えたことすら自覚してはいないだろう。私自身が聞き逃しかけたのだから……。何気ない言葉の中に潜んだ心の内を垣間見て、私は戸惑い、揺れ動いたのだった。
生涯の伴侶ーーとまで考えていた由紀子を愛さなくなっていたこと。そのことに気づいた時、たいした驚きは感じなかった。それはたぶん、時間をかけて徐々に蓄積されてきたからだろう。だいぶ前から薄々は感じていたことだった。そして、ひょっとすると彼女自身も気づいていたのではないかと私は変にゆったりした気持ちで考えたりしていた。
色あせた感情の交流が続いていた。二人で会っていても、ふと顔を伏せがちになり、言葉が彷徨って沈黙することが多くなった。会いたくて胸を焦がすこともない。意味もなく微笑み合ったりする恋人然とした心の触れ合いも起こらなくなっていた。
しかしだからといって彼女を嫌いになったのかというと、決してそうではない。存在が疎ましいのではなく、関係の潤滑油が切れた、とでもいうべきか。気持ちを思いやることが億劫になってきたのである。勢いの衰えた惰性に疲れてしまったのだった。
それは彼女を拒絶する感情ではない。私はそう信じていたし、それが正しいか否かを考えることは、とても馬鹿げたことだと思っていた。なぜなら、どう考えてみても私が由紀子を嫌う、また彼女が私を嫌う理由などどこにもなかったのだから。……