白い波青い海-2
私は女と老人が寄り添いながら石段の上に消えるまで見送っていた。老人の枯れ木のような印象に比べて、女の瑞々しさが輝くようで眩しかった。
翌朝、私が目覚めたのはまだ六時前。東京にいた時は呆れるほど寝起きが悪かったのに、ここに来てからは夜更かししても熟睡というものがなかった。
朝食前に下駄をつっかけて表へ出た。外から二階の自分の部屋を見上げた。昨日の明け方、玄関に鍵がかかっていたので、やむなく両手に下駄を握りしめて非常階段を使って抜け出したのである。その後、外から入ってきた私を見て旅館の主人が怪訝な顔を見せていた。
気の向くまま歩き始めた。
この小さな町にもすでに朝の活気めいた雰囲気が流れている。とはいえ、どこかしら中途半端な町である。浜の西側に小さな漁港はあるが、船も少なくて年老いた漁師を見かけるだけである。農業を営んでいる家もあるようだが、特に名産とよべるものはないようだ。観光地として人を呼べる名所、旧跡もない。旅館も私が泊っているところが一軒だけである。バスで三十分もいけば映画館や小規模ながら百貨店と名のついた店のある町がある。男たちの多くはその町に働きに出ているのだった。
夏になると此処にも都会の若者が流れてきて、ささやかな浜辺も海水浴場としてひととき賑わうのだと宿の主人が言っていたが、今はまだ磯釣りの客がときおり訪れる程度である。
海が一望できる高台を目指して歩いた。途中、何人か見覚えのある男たちを見かけた。すれ違う度に物珍しげな視線を受ける。彼らからすれば私はずいぶんと胡散臭い男に見えることだろう。目的もなくここへやってきて一週間になる。早朝だけでなく、一日なんどもぶらぶらしているのだから当然顔も知られることになる。
とりわけ興味をひくものがあったわけではない。何もないことがよかったのか、帰る気にもならず、どこかへ行く踏ん切りもつかない。旅館の主人もその目つきや表情からすると、私の『正体』に掴みどころのない『疑惑』を抱いているにちがいない。
(いったい何が目的なんだろう?……)
宿代は数日毎に清算しているからその点の警戒はないだろうが……。
私は誰かとすれ違うたびに自分の怠惰を恥じるように俯いた。
高台から海を見下ろす。直下は岩場になっていて、湾曲する砂浜へと続いて今日は穏やかな波が打ち寄せている。
遥か豊沃な大洋に大型船が見える。まるで海面に固定されたように隔たった感覚の静止状態に思える。じっと追っていると船体は島の向こうにゆっくりと欠けていく。のどかな海上の進展である。その景観はたしかな立体感をもって感じられた。
明るい朝であった。小さな集落なので、どこを歩いても見たことのある場所に出てしまう。一週間の滞在で全貌がほぼ把握できるほどである。道に迷うことはありえなかった。
高台から砂浜へ出られる細い道を辿る。石段を中ほどまで来て足をとめた。
(あの老人がいる……)
一人である。砂浜の石に腰かけて海を見ている。
浜に下りるとわざと音をたてて歩いていった。
老人は近寄っても顔は海に向けたままである。口元だけが絶えず動いているのは癖なのか、後遺症なのか。
話しかけてもどうせとんちんかんな具合になるのだろうと思いながら、私は声をかけてみた。
「何を見ているんですか?」
右脚を延ばしたままなのは麻痺があるのだろう。少し間があって、意外にも老人はゆっくり顔を向けた。そして口ごもりながら、
「海を……な……」
それだけ言うとまた前を向いた。
私がほっとしたのは意志疎通ができるとわかったからである。
「きれいですね」
老人は答えなかったが気にならなかった。
風が出始めてきて波頭が白く千切れるようになってきた。私は煙草を喫い、しばらく潮風に包まれていた。
そろそろ朝食の時間になる。
「それじゃ、お先に」
枯れた老人の横顔は古い木彫仏のように見えた。
踵を返して立ち竦んだ。いつの間にか昨日の女がいたのである。体に熱いものが走った。
女はさりげなく視線を外し、老人の背に回って肩に手を置いた。匂うような髪が風に揺れている。
「ご病気なんですか?」
やっとそれだけ言った。女の目は私に向けられない。
「ええ……ちょっとね……」
無愛想に感じられる言い方に聞こえた。老人をからかった子供たちと同様、私もその一味と思われているのだろうか。‘ちょっとね‘というあしらった言葉が私の少々の憤慨を掻き立てた。
「そうですか」
ぶっきらぼうに言うと、私は二人を残して歩き出した。
石段を登りながら振り返ると、女は老人に肩を貸しながらよろけるような足取りで歩いてくる。たどり着くまでだいぶかかりそうであった。