均衡の崩壊-3
この兄は杏樹のことをありえないくらい溺愛しすぎているのだ。シスコンなんて言葉では収まりきらないくらいに。
そう考えたとき、大輔の脳裏に先日の光景が思い出された。太陽の光を反射してふわりと舞う髪。あらわになるか細い首筋に浮かぶ純粋で清廉な杏樹に似合わない、妖艶な赤い痕。
「!!もしかして…」
(でもそうとしか考えられない…)
大輔は自分の鼓動がばくばくとうるさく脈打つのを感じ、胸を手で押さえた。はやる気持ちをこらえつつ、冷静な口調を装って尋ねる。
「もし違っていたら罵っていただいて構いません。もしかして…貴方、杏樹を…」
その、彼の緊迫した様子から彼がすべてを口に出す前に何を言おうとしているのかを理解した隆一は、口の端を笑みの形に釣り上げてにやりと笑った。
「もしかして、首の痕を見たのかな?寄ってくる虫を避けるために付けておいたんだ。『これ以上杏樹に近づくな』ってね。服の下にはもっとたくさん綺麗な赤い花びらが舞っているんだよ。…その様子だと君は知らないみたいだけど」
隆一はいともあっさりと妹を自分の欲望で穢したことを認めた。
そのあまりのあっけなさに大輔は数秒間、考えることを拒否したかのように呆然とした後、全身の血が逆流するかのような怒りを覚えた。
「杏樹は血のつながった妹でしょう!?正気の沙汰じゃない…!!あなたは犯罪者だ!」
隆一は、はっと大輔のことを嘲笑った。
「知らないみたいだけど、この国の法律には近親相姦を戒める明確な法律は存在していないんだよ。でも、もし君がどうしても法廷に持ち込みたいのならやってみるといい。最愛の杏樹に『わたしは兄に犯されました』と公衆の面前で証言させることになるけどね」
否定できない正論に大輔はぐっと奥歯を噛んだ。握っている手に血が滲みそうになるほど爪が食い込んでいるが本人は気づいていない。
「歪んだ常識を杏樹に押し付けてるのはあなたの方でしょう!?妹を本気で愛すなんて…狂ってる…!!」
握った手に更に力をこめて大輔は地面に吐き捨てるように言った。今はただ自分の中に燻る怒りとやるせなさを目の前の男にどうにかしてぶつけたかった。
大輔はさらに言い募ろうと憎悪の眼差しで隆一を見上げ、罵る言葉を吐くために口を開きかけた。
しかし、そこに大輔が予想していた傲慢な態度の隆一はおらず、痛みを堪えるかのようにつらそうに眉根を寄せて自嘲気味に笑う男がいた。その表情を見ていうはずだった罵詈雑言は喉に張り付いたまま、行方を無くしてしまった。
「…世間に認められようとは端から思っていない」
隆一は大輔に向けて、というよりはひとり独白するようにか細い声で言葉を紡ぐ。
「ただ愛しているだけなんだ…」
片手で頭を抱え、愛を囁くにはいささか寂しすぎる声音で隆一は告白した。
彼の顔に何とも言えない悲しみが浮かぶ。しいて言うならば、泣き笑いのような…
「君には永遠にわからない。杏樹を何の躊躇いもなく愛すことができる君には。僕の苦しみは…」
さっきまであんなに傲慢だったはずの隆一の声には、先ほどまでの強さや自信は一切感じられず、ただただ苦悩と切なさが滲み出ていた。
静かに玄関扉の奥に消えた哀愁さえも漂う隆一の背中に大輔は彼の本当の心を見た気がした。
(彼は俺と同じように純粋に杏樹のことを愛しているんだ)
しかし、血のつながりが彼の愛を歪めてしまった。兄妹だからと拒絶されるのが怖くて。
何も知らない妹につけこんで関係を強要して。
それでも、杏樹のことを手放すことができないでいるのだ。
(彼と俺で何が違うんだろう…杏樹と血が繋がっているかいないか、それだけじゃないのか?)
そこまで考えて大輔は、はっとして今の考えを振り払うために頭を軽く振る。
(いや、そこが大きな違いなんだ。やっぱり彼は間違っている…!)
何度も何度も繰り返し自分に言い聞かせた。やはり、実兄と結ばれるなんて間違っていると。自分には彼とは違って杏樹を愛する権利があると。
大輔はその後しばらく、隆一が入っていった玄関の扉を見つめ続けていた。
「食事が終わったら僕の部屋においで」
兄が大輔と話を終えて家に入ってくるのを今か今かと待ちわびていた杏樹に隆一は落ち着いた低い声でそう告げた。
「わかった」
2人で一体何を話したのか、聞きたくてたまらなかったけれどいつになく意気消沈した様子の隆一にそれ以上質問を投げかけるのは躊躇われた。
自分で作った大好物のシチューはほとんど喉を通ることはなく、杏樹はそそくさと階段を駆け上がって自分の部屋の隣にある長兄の部屋に向かった。
「大輔君と何の話をしていたの?」
後ろ手に扉を閉めると同時に堪え切れなくなった言葉が自然と口から漏れた。
兄は杏樹に背を向けて書き物机に向かいイスに腰掛けておりその表情は伺うことができない。
「何って、もちろん杏樹の話」
隆一はくるりとイスを反転させ体を杏樹の方に向けた。
顔は一応笑みの形になっていたが、目が全く笑っていない。
「私の…どんなはなし?」
恐る恐る尋ねてみると、彼はにっこりと笑って緩慢な動作で椅子から立ち上がった。
ゆっくりと杏樹の方に足を踏み出す。
「ええと、彼…大輔君、だっけ?と杏樹が付き合ってるって聞いたよ」
杏樹は気まずいような申し訳ないような心境になって上目遣いに彼の表情を伺ってみるが、怒っている様子がなかったので、ひとまず安堵した。
彼は相変わらず歩を進め、2人の距離は徐々になくなっていく。
「彼、すごく杏樹のことが好きみたいだった」
「そっか」
(大輔くん…)
杏樹が恋人の一途な思いを改めて感じ、頬を緩めるのを見て、隆一の顔からはついに笑みが消えた。
「ねぇ、杏樹も彼のことが好きなの?」
彼女の目の前まで来た隆一は両腕をドアについて杏樹をその中に閉じ込めた。