尾行1-4
佐伯とは同年齢で大学も同じで同期の入社だ。昇進もほぼ同じで、しかも今は同じフロアにいる。仕事の打ち合わせ等でたまには会話はするが、会社の同僚というくらいで、私生活まではお互い干渉する仲ではない。住所も知らなかった。入社して数年経ったあと、佐伯が結婚したことを知り、敗北感を感じて無性に腹が立ったことを思い出した。
「ふん、まさか、同姓同名……だろう」
無理やり笑おうとして顔を引きつらせた。
「佐伯と……さっきの田倉……」
石橋は弾けるように後ろを振り向いた。まるでそこに田倉がいるかのように。後ずさる石橋のひざがカクンと折れた。
「つ、つながった、のか。この佐伯は……」
こくっと唾を飲み込んだ。
「あの佐伯だ」
奈津子は佐伯義雄と結婚していた。その事実に石橋はいい知れぬ寂寥感を感じていた。さっきまで送別会をした飲み屋で一緒だった、はにかむように笑う佐伯の顔を思い浮かべた。
「やっぱりあの電車は鬼門……」
つぶやきながら目をこすった。目尻に涙がたまっていた。
進藤奈津子を知ったのは大学三年のときだ。その頃は環境科学や環境物質などをテーマとしたゼミへ積極的に通う、将来への大志を胸に秘めていた若者であった。石橋の受けていたゼミは他校でも有名で、その講師は学外でも講演することもある。石橋は仲間と連れだって、できるだけ聴講するようにしていた。
そこに女学生数名が連れだって来ていた。たびたび彼女たちを見かけるため石橋の仲間の一人が声をかけた。多少の下心もなくはないが、勉学に励むまじめな学生ばかりで、様々な問題に対し議論するグループ関係ができた。その中に奈津子がいた。
奈津子は大学生には見えない童顔で物静かな学生だった。初めは派手目の女子学生に目がいったが、話をするごと奈津子が思いやりのある優しい女性であることが分かってきた。
石橋の胸の内で奈津子の存在がどんどん大きくなっていった。そしてゼミは奈津子に会いたいがための目的に変わっていった。
石橋たちは大学のゼミに奈津子たちを呼んだりもした。尻込みする彼女たちを石橋が先頭に立って半ば強引に誘うようになった。
そして何日も悩み苦悩した末、奈津子に交際を申し込んだのだ。女性と付き合ったことのない石橋の生まれて初めての告白だった。そしてあっさりと断られた。申し訳なさそうに言ってはいたが、きっぱりと拒否されたのだ。
後で分かったことだが石橋は奈津子の好みではなかったらしい。むしろ嫌いなタイプであった、のような噂を聞いた。奈津子がそんなことを口にする女性ではないと思うが、女性に免疫のない石橋の絶望は大きかった。
佐伯とは一度同じクラスになったこともあったが、特に親しかったわけではない。やや鼻にかかったようなしゃべり方をする佐伯を「なんだか坊ちゃん坊ちゃんしているな」とか「友だちにはなりたくないヤツだな」などと、せせら笑いながら学友相手に陰口をたたいたこともあった。『佐伯』という高級そうな名字も気に食わないし、家は金持ちに決まっている、といった妙な偏見を抱いていた石橋は歯牙にも掛けなかった。
卒業後、偶然にも同じ会社に入社していた。お互い地方を転々としていたが、数年前になんと同じ支社に配属となったのである。
「やあ、また君と一緒だね」
人懐っこい顔で佐伯義雄が声をかけてきた。
相変わらず軟弱そうな野郎だな。チビのボンボンが――声には出さずそんな顔をしたが、もちろん佐伯には分からない。そのときはすでに佐伯は奈津子と同じ屋根の下で暮らし、子供まで作っていたわけである。
「結婚して何年だよ、くそ」
石橋の独り言が大きくなってゆく。指を折って数えるが、両手では足りないことに気づく。人っ子一人いない静まりかえった住宅街で両手を開いたり閉じたりして、危険なほど挙動不審な状態であることは、もはや頭から消え去っていた。
次に「今まで何回やったんだ」などとバカなことを真剣に考えれば考えるほどキリキリと胃が痛んだ。それこそ指が何本あっても足りないことに気づいて涙目になる。
「ほんとうにあの進藤さんが、田倉と……」
石橋はぼんやりと立ち尽くしていた。
「そうだ、電車の女の子、なんで笑ってたんだろう?」
脈絡もなく、そこのことを思い出した。
「たしか頭をぶつける前……いてぇ」
思い出したとたん後頭部が痛み出した。女子高生が笑った理由など考えても分からない。顔をしかめ頭を押えた。
勉強が手につかないほど恋い焦がれた女性が、自分が見下していた男の妻となっていた事実、ホテル街から逃げるようにして去った奈津子、そのホテルから出てきた佐伯の上司である田倉。狂ったように笑っていた女子高生、そして後頭部のコブ。頭の中でそれらがごちゃ混ぜになっていた。
再び鬼門の電車に乗るため、ションボリと肩を落とした石橋は、暗い夜道をトボトボと戻っていった。