上司-7
「あの子かわいかったね」
寝坊した父親の義雄が「じゃあ、行ってくるから」と言って慌てて家を出て行ったあと、トーストを頬張りながら恵が言った。
「まあ、あんなに慌てて。起こしたのにお父さん全然起きないから。ん、あの子って?」
奈津子はキッチンに立って恵に背を向けている。
「ほら、お父さんの上司の人の、娘さんの万里亜ちゃん」
「ああ、万里亜ちゃんね。かわいいかったわね、しっかりしていて」
本当はすぐに気づいていた。
「ねえお母さん、あの人洗濯屋さんに持ってったかなぁ」
「もちろんよ」動揺を悟られないよう「でも、きちんとお詫びをしないといけないわね」と、困った声で――さらに、ため息混じりで言った。
「何と言ってもお父さんの上司だし。本当に困ったわね」
奈津子はエプロンで濡れた手をぬぐいながら、物思わし気な表情を浮かべて恵の前に座った。
「そうよね。どうするのお母さん」
半熟の目玉焼きをズルッと音を立て吸い込む恵に、もう少し女の子らしく食べなさい、としかってから「なにか買ってお渡ししようかしら」と続けた。
「お父さんに持たせたら?」
「そうはいかないわ。そんなの失礼でしょう」
「でも、どうするの? じゃあ、会社に直接持ってったら」
腰に手を当てて牛乳を飲みながら恵は言い放つのである。
「そんなことできるわけないでしょう」
口をへの字にして娘のあごに滴った牛乳を指差し、ほおづえをつき真剣に考え込む。
「年賀状あるんでしょう?」
「あ、そうね。そう言えば田倉さんてあったような」
奈津子の顔がパッと輝いた。田倉の名を口にしたとき頬が熱くなるのを感じ「あとで探してみるわ」と言って、台ふきでテーブルをふいてごまかした。
「これでなんか送れるね」
そう言って恵はウインナーを二本まとめて口の中に押し込んだ。
「でも、ポイッて送るのなんて、やっぱり失礼だわ」
女の子なんだから、もう少し上品に食べなさい、と注意をして奈津子は悩ましげに眉を寄せた。
「別にポイッてわけじゃないと思うけど。なんかひとこと書けばいいしさ」
うーん、と唸っている奈津子に「じゃあ住所が分かるんなら、お家にお菓子でも持って行ったらいいんじゃない」と言った。
「お家までなんて、そんなことできないわ。もっと失礼じゃない」
ことごとく否定する奈津子に恵は口を尖らせ「じゃあもうわたしに聞かないで」とへそを曲げた。
「ねえ、ほかに何か方法があるんじゃない? めぐみちゃん」
申し訳なさそうな顔で恵の顔を覗き込んだ。
そのとき突然、ガタン、と大きな音とともに恵が立ち上がったのである。
奈津子はギョッとして「脅かさないでよ」と両手を胸に当てる。
「遊園地よ!」
娘の頭の回転の早さについて行けない奈津子は「なーにそれ」と間の抜けた声を出す。
「そう、遊園地に招待するのよ!」
「遊園地って、わたしが……」
「万里亜ちゃんをね、招待するの。ね、いい案でしょう? ああ、わたしってすごーい」
自画自賛しながらうっとりした顔でペタンといすに座り、残してあるパンの耳で皿に垂れた目玉焼きの黄身をぬぐい、次から次へと口の中に放り込んだ。
わたしが部長さんと? と言いかけたが、恵の興奮した声に慌てて引っ込めた。言わないでよかったと密かに胸を撫で下ろしていた。田倉と二人で遊園地にいる自分を思い浮かべ、いったいどうするのだろう? と内心ドキドキしていたのだ。
悟られてはいけないと「もう少しお行儀よく食べなさい」と母親の声でしかったのである。