上司-6
「ええっ! 佐伯係長の、奥様ですか」
田倉は辺りをそっと見回し、人差し指を唇に当てた。沙也加は驚驚いた表情のまま慌てて口を押さえる。
食事に誘ったのも心奥では誰かに伝えたいと思っていたからかもしれない。吐露してしまったが後悔はしていない。沙也加は田倉が信頼する社員の一人だからだ。
「むろん、どうのこうのということではないが……。でも考えれば考えるほど、何と言ったらよいのか――」ため息を漏らし、胃を押さえ「――ここががキュッとするんだ。情けないくらいさ」
人差し指で鼻の頭をかいてから「やっと君を驚かせることができたな」と、自嘲気味に笑い、グラスに残っていたワインを飲み干した。
田倉のグラスにワインを注ぐのも忘れ、呆気に取られたような沙也加の視線に弱々しくほほえんだ。さすがの沙也加も言葉が見つからないようだ。
つい先日の日曜日のことだ。奈津子の手が胸に触れたとき一瞬息ができなかった。仄かな体臭に頭が痺れた。何十年も忘れていた、ほとばしるような熱情にうろたえ、一瞬のうちに恋をしていたことを理解した。
「失礼なことをお伺いしますが」
形のいい唇を窄め悩ましげな表情のまましばらく無言だった沙也加が顔をあげた。
「係長の奥様、そのときのお詫びというか、そういったことは何か」
「いや、それは無いよ。わたしがいいって言ったから。頑固にね」
「でしたら、きっと気にしてらっしゃいます。奥様の方から必ずアポイントメントがあります。優しい人ですから放っておくことは有り得ないわ」
「君はまるで知っているみたいだね」
「そのくらい分かります。だって部長が恋した女性ですもの。思春期の少年のように」
うふふと笑い「素敵な方に決まっています」と付け加え、「すみません」と言って、田倉のグラスにワインを注いだ。
「だったら、佐伯君から言ってくるのじゃないかな」
「いいえ、奥様はご自分で連絡してきます、きっと」
「そうかねぇ。とても信じられないな」
沙也加の表情が硬いのは、よからぬことをけしかけて後悔しているのだろう。裏腹に田倉は口元に笑みを浮かべ、ワイングラスに手を伸ばした。
沙也加と別れてから、実家で預かってもらっている娘の万里亜を迎えに行った。仕事柄、遅くなることは常だ。とても一人で育てることはできないので、実家に頼るしかない。
タクシーの中で寝てしまった万里亜を抱き、だだっ広いマンションのエントランスからエレベーターに向かった。
「このままじゃいかん」
腕の中で眠る我が娘の顔を見て自然とつぶやいていた。
万里亜が三才のとき妻は出て行った。妻は万里亜のことだけが気がかりで、出て行くときは泣いていた。万里亜は絶対に渡さないと、ガンとして譲らなかったからだ。
そのあと田倉は妻とは直接会ってはいないが、万里亜は週に一度は会っている。妻は万里亜に会いに実家を訪ねて来るのだ。田倉の両親との仲はすこぶる良好らしい。妻は両親を慕い、両親も実の娘のように思っている。別れるときも実の息子ではなく妻の方に味方をしたくらいだ。意固地になったのはそんな経緯もあった。
万里亜も母親と会うのはうれしいに決まっている。会う日の全身でウキウキしている様子は隠しようもない。しかし田倉の前では母親のことは口にしない。母親からもらったものは全て実家に置いてある。そこまで気を遣う幼い娘があまりにいじらしい。腕の中で眠っている万里亜を見て、目尻に涙が貯まっていることに気付き苦笑した。
「いかんな、このままじゃ」
また声に出した。
シャワーを浴びた田倉は寝室に戻った。ベッドの上で大の字になって、すやすやと寝息をたてる万里亜を見る。笑みを浮かべたまま、音をたてないようチェストの引き出しをそっと開ける。中に丁寧に畳んで置いてある、あの日から洗濯をしていない白いポロシャツを手に取った。ちょうど心臓の当たりにピンク色の口紅が付いている。
あの日から心が暴走している。
ベッドに横になり、目を瞑り、そっと唇を押し当てた。