上司-2
奈津子はちょうど曲がり角で後ろを振り向いてしまったため、丸柱の死角からきた人に気付くことなく正面からぶつかってしまった。
「あっ」と声をあげ、慌てて「ごめんなさい」と頭を下げた。
「いや、わたしもうっかりしていました。申し訳ありません」
頭の上の方からバリトンが響いた。奈津子の背丈はその男の胸までしかない。見上げると日焼けした顔に白い歯をこぼしている。そして男の胸にピンク色の染みを見つけた。
「ごめんなさい、口紅が付いてしまって」
奈津子は慌ててハンドバッグからハンケチを取り出す。
「いやいや、結構ですよ」
奈津子よりずっと年上と思われる男は見上げるほど背が高い。真っ白なポロシャツにうすい水色のジャケットを羽織ったラフな着こなしも、精悍な顔立ちと上背があるせいでなかなかサマになっている。
ポロシャツに付いた口紅をぬぐおうと男の胸にそっと手を添える。その胸板の分厚さにドキッとした。慌てた拍子に落としたハンケチを、男は屈み込み拾おうとしたが、誤って奈津子の手を握ってしまう。
「あ、いや、すみません」
男は熱いものでも触れたかのようにあたふたと手を引っ込め、照れくさそうに頭をかく。奈津子もはにかみながら小さくほほえんだ。
遠くから見ていた義雄は奈津子が人にぶつかったことだけは分かった。柱の陰からチラッと男の姿が見えた。「全くそそっかしいな」と、つぶやき、ため息をつきながら義雄は足早に近づいていった。
奈津子は別のスーパーで、棚に並べたガラスのコップをバッグでなぎ倒してしまい、コップの割れる音よりも大きな悲鳴をあげて顔を真っ赤にしたことがある。一月後、そのスーパーへ買い物に行ったときは義雄はビクビクしていた。だが、その前を通った妻は何事もなかったように平然としていたのだ。義雄は唖然とした顔で聞くと「ああ、そうだったわね」とのんきな声で返事を返してきた。妻の驚くべき性格をかいま見たのであった。そのことを思い出し首を振っていた義雄だが、奈津子の前に立っている男を見て「あっ」と声をあげた。