前編-9
(5)
初めは上の兄を頼って上京するつもりでいたのだが、急な転勤で地方に異動になってしまったので、やむなくアパートを借りることにした。やむなく、とは、両親の手前そんな顔を見せただけで、小夜子は内心嬉しくてたまらなかったのだ。一人暮らしへの憧れ、自由な時間、空間、未知の大都会。何かが起こりそうな期待感が胸にあふれてくる。兄の転勤を知って何度も小躍りしたものだ。
それなら寮のある会社を選べと言われたが、小夜子は「見つけてみる」と言っておいて、無視してタオルの卸し会社に就職した。下の兄の蕎麦店に近いことで納得させたのである。
四月に入社して、五月には処女を喪った。その時、鈍い痛みを耐えながらゼンリョウたちと寺で向き合った光景が浮かんでいた。
相手は岩永という会社の課長である。何度か飲みに誘われて慣れない酒を飲まされ、そのまま連れ込みへとお定まりの手順に引っ掛かった形だが、自分の意思ははっきり持っていた。経験のない彼女にも流れの先に起こることは予想出来ていた。優しそうな人だし、そうなったらそれでいいと思っていた。
はっきり気持ちが傾いたのは、岩永の妻が子供を置いて実家に帰ったままだと聞いたからだった。
「もう、一年になるんだ……」
「どうして戻って来ないんですか?」
「わからないんだ。理由を言わないし」
仕方なく子供は彼の両親に預けてあるという。
「子供さん、かわいそう……」
「こんな話聞かせちゃって、すまないね」
岩永はしきりに首をひねっていた。
「課長も大変ですね」
「そう。食事もつい外で済ませちゃうし、やっぱり寂しくてね……」
「奥さんもひどいわ……」
同情が熱いものになって、誘われるまま身を任せたのだった。
それから付き合うようになり、三度目の夜、小夜子は達した。自慰とは比較にならない快感の炎に焙られて意識が飛んだ。それからは溺れたといっていい。小夜子のほうから誘うこともあり、根が感じやすいから積極的に挑んでいくようになった。
半年ほどして同僚の雑談から岩永の話が嘘だとわかった。子供を実家に預けているのは事実だが、奥さんは末期の癌で入院しているのだった。それを知って小夜子はかっと熱くなった。怒りもあったが、それより奥さんに対して申し訳なくて、恥ずかしかったのである。他人の夫と没入した夜の狂態の数々が甦ってきた。知らなかったとはいえ居たたまれない気持ちになった。
その日、岩永の誘いに頷いた小夜子は、待ち合せ場所をいつもの喫茶店ではなく、駅近くの公園の入口に指定した。秋雨のそぼ降る寒い日であった。(何で?……)と思っただろうが、岩永は何も訊かなかった。その夜の行為だけが頭を占めていたにちがいない。
退社後、小夜子は花を買って病院を訪れた。
岩永の妻は眠っていた。痩せこけて頬が落ち、死んでいるような青白い顔だった。じっと見つめているうちに胸が苦しくなった。花を看護婦さんにお願いすると逃げるように病院を出た。
翌朝出社すると岩永が奥から手まねきした。そばに行くと、何かの書類をいじりながら声を落として、
「どうしたの。二時間も待ったよ。雨の中」
「すみません、課長。築地の病院に行っていたものですから。お見舞いに」
他の社員が目を向けるくらいはっきり言った。うろたえる岩永の前に小夜子は辞表を置いた。
岩永を恨む気にはなれなかった。ひどい嘘だとは思う。でも、初めての男で、自分も夢中になったのだ。だから同罪だと思う。だけど悔しいから雨の中で待ちぼうけを食わせてやった。それでいいと思った。