(前編)-6
ふと目を開けると、いつのまにかオレンジ色に染まった秋空に雲が薄くなびいている。
「もう帰りますね…また、どこかでお会いできたらいいですね…」
と言いながら女はベンチから立ち上がり、小さく会釈をすると私を残して立ち去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、なぜか私はこの女とふたたびどこかで会えそうな予感を強く感じ
たのだった。そして老いたこの私でも、もう一度、奥深い性の記憶を取り戻すために、この女
から何かをたぐり寄せることができそうな気がした。
老人ホームの窓から見える海と空の境が仄かな黎明を滲ませ、波ひとつない海のおもては薄紫
色に染まっている。
古いラジオから、いつものようにソプラノの歌手が歌うアリアが流れている。誰の歌だったか
忘れたが、妻とからだを重ねたときには、いつも耳元で流れていた曲だ。
妻が生前使っていた小さな化粧鏡に自分の顔を映す。油気のない白髪、こけた頬、窪んだ眼…
それらのすべてが死へ向かう私の中の老いの暗さと苛立ちと虚ろさを滲み出させていた。
ただ、いつもと違っていたのは土器色の枯れた顔肌に、どこか欲情を匂わせるような仄かな赤
みが差しているような気がしたことだった。私は、ひびわれたように皺を刻んだ紫色の唇を指
でそって撫でる。私と妻の性に密やかな疼きを与えてくれるものは、萎えきったペニスではな
く、いつも私の唇の中の赤茶けた舌とひょろりと伸びた細い指先だけだった。
私は鉄格子の入った刑務所の独房のなかで五年間という無為の時間を過ごした。
私にとって生きる意味とは、妻の心と性の記憶への痛切な飢えであると同時に、茫漠たる禁欲
だった…。
私の前面の独房に入っていた若い男は、毎夜のように醜い尻と背中を覗かせ、自慰の嗚咽と
精液のすえた臭いを漂わせていた。私は男から目を背け、耳をふさぎ、自分の肉体の中に増殖
しようとする性の糜爛のすべてを封印しようとしていた。
そして刑務所を出所すると、まるで性の幻影から逃れるように無我夢中で働いた。日雇い労働
で肉体が砕けてしまいそうなくらい自分の肉体を苛み、ときに幻惑に囚われ、小鼠の死骸のよ
うに萎えた自らの性器に刃物をあてたこともあった。そして気がついたときは、すでに七十歳
という年齢に達し、私もまた妻と同じ不治の病魔に侵されていた。
ベッドにからだを横たえたまま、私は一週間前に公園で初めて出会った「谷 舞子」という女
の姿を脳裏に描く。
そして、彼女の麗しい姿を思い浮かべながら、下半身の下着をずりおろし、湿った指先で自分
のペニスをまさぐる。いつもの乾ききった海藻のような陰毛がかさかさと指に絡む。老いた
ペニスは暗い陰翳に包まれたように萎え果て、儚げな肉の欠片でしかない。
妻を失ってからというもの、私は女の肌に触れたことはなかった。惹かれる女がいなかったわ
けではないが、なぜか、私はからだの奥底から響いてくるような女に出会うことがなかったし、
お金で女を買うことが、性の交わりができない私にとってどういう意味があるのかさえわから
なかった。
しかし、ふと「谷 舞子」という女のことを想うと、私のなかにずっと潜んでいたものが自然
と蕩けだしてきたような気がした。