師弟の病名、教えます。-3
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イスパニラはその昔、農牧の国だっただけあり、犬は大変重宝されていた。
軍国に変わっても、軍用犬として犬は大活躍だ。
品種改良によって、吼え声の小さな種やネズミを取るのに適した種や、有閑階級のペットとして愛玩種など、さまざまな新種が生み出されている。
ラヴィは最初、一人で出歩くのが怖くてたまらなかった。
イスパニラ王都には犬を飼っている家が多く、散歩や買い物に連れてくる人はもちろん、野良犬も沢山うろついている。
ある日など、市場での買い物帰り、大きな野良犬たちに追いかけられ、籠を放り出して逃げる事態になった。
そこで狼化したルーディが、近辺の野良犬たち全員と、少々血飛沫のあがる交渉をし、ラヴィを怯えさせない事を誓わせたのだ。
犬社会は順位が絶対で、強いものには逆らわない。
以後、近所の野良犬たちはラヴィを見ると、即座に腹を見せて服従ポーズをし、道を開ける。
(あのコ、大人しそうな顔して何者だ……?)
申し訳なさそうに犬たちの間を通り過ぎるラヴィに、人々はヒソヒソ囁きう。
『野良犬同士の抗争で数十匹を血祭りにあげた狂犬女王』とか『一声で王都中の野良犬に集合をかけられる黒髪夜叉』とか、ラヴィの知らぬところで、数多の伝説が流布されているのだが、それはまた別の話。
「ルーディ、どうしたの?」
ラヴィが子犬を抱いたまま、凹んでいるルーディに首を傾げる。
(犬だったら、もうちょっと逞しく育てよ!卑怯もんが!!!!)
もどかしさに歯噛みし、ルーディは子犬を睨む……いや。この小さな犬は、これでも成犬なのだ。しかも雄。
まだ庶民階級には出回っていないが、イスパニラ王都の上流階級で人気のある愛玩種。
根っからの室内犬で、野性の欠片も残っていないせいか、こっそり威嚇しても、「きゅうん?」といまいち通じていない。
「……ルーディ。この前も言いましたが、君はまったく阿呆ですね」
くだらない嫉妬に気付いたヘルマンの冷たい視線に、凍えそうだ。
ラヴィが人気役者と一日デートする権利を引き当て、ケンカしたあげくこっそり付いていったのは去年の話。
その時、巻き込まれて散々な目に会ったヘルマンは、吹雪のように冷ややかな視線で『この愚弟子め』と語っている。
「その子は預かりものなんだよ。さ、おいで」
近づいたアイリーンがバスケットを片手に声をかけると、チワワはラヴィの腕から飛び出し、バスケットに納まる。
「飼い主の都合で、親戚の家にひきとられることになってね。その家まで運ぶのさ」
「そうなんですか」
ラヴィは名残惜しそうにバスケットを覗き込む。
「ワオン!」
突然、荷馬車の間から野太い陽気な犬の声が響いた。隊商の飼い犬ゾーイだ。
赤い毛並みの大型犬に、ビクンとラヴィが顔をひきつらせる。
大人しく賢い犬であると知っていても、やはり身体が強張ってしまうらしい。
ゾーイも心得ており、ラヴィには近寄らず、遠くからルーディに声をかける。
「ワゥォン!(兄貴、お久しぶりです!)」
「ゾーイ、元気そうだな」
ラヴィが近づけないのを承知で、ルーディはスタスタとゾーイの所にいく。
「オン?(兄貴、お連れさんはいいんですかい?)」
「ああ」
苦い表情を押し隠し頷いた。まだバスケットを覗き込み、チワワをなでているラヴィを、これ以上見ていたくない。
「ラヴィ、お待たせしました」
手伝いを終えたサーフィが戻ってきたのも見え、ルーディはゾーイと共にその場を離れた。
【あの若造にゃ、俺らの流儀は通じませんよ。甘やかされまくった飼い犬で、上下関係もあったもんじゃないですから】
ゾーイが慰めるように言った。彼はウルフハウンドという古くからの種で、名前からして本来は、狼を狩る目的の猟犬だ。
初対面の時は、やはり本能から挑んできたが、今ではルーディを兄貴と呼び慕ってくれる。
荷馬車の脇に置かれた木箱へ腰掛け、ルーディは力なくうなだれる。
「まぁ、そりゃそうだろうなぁ……」
市場の人間は買い物や仕事に忙しかったから、まるで人間に話すように、犬と会話している青年に注意を払うものはいなかった。
ルーディだって不思議だが、狼にならなくても、ゾーイとは意思が通じあえるのだ。
でも、チワワのように品種改良された愛玩犬とは、狼にならないと話ができない。
それは多分、彼らが狼からかけ離れた種になっていった証だろう。
「ゾーイもあれには苦労してんのか?」
【馬車から脱走するのを追いかけたり、生意気な口聞かれるのは我慢できますがね】
辛抱強い猟犬は、ふっと虚ろな目をする。
【坊ちゃんがすっかりあれを気に入って、俺の毛布をかけてやろうとした時には、涙がでそうになりました。悪気がないのは承知なんですが……】
「お気に入り毛布を!?」
子どもというのは……いや、飼い犬にとってお気に入り毛布がどれだけ重要か知らない人間はなんて残酷だと、ルーディはガタガタ身震いする。
「お前っ、我慢しすぎなんだよ!怒って良い時だってあるんだぞ!」
思わずルーディの方が涙ぐみ、どこまでも健気な猟犬を揺さぶってしまったほどだ。
【いや、幸いにもボスがすぐ取り返してくれましたから】
ゾーイにとってのはボスは、もちろんアイリーン・バーグレイである。
彼女の命令は絶対であり、命を賭しても守るべき存在だ。
「姐さんはさすがだな」
ルーディは感心して頷く。
そこがバーグレイ商会の揺ぎ無い結束を保っている、何よりの要素だろう。
よくよく思い返せば、チワワをすぐにラヴィから引き剥がしたのも、ルーディの様子に気付いたせいかもしれない。